朝日館 奈良県吉野郡川上村柏木 2018年4月訪問

 近鉄吉野線の大和上市駅からタクシーで吉野川を遡り40分ほど、料金にして片道1万円弱はかかったのだが、それだけ支払っても訪れる価値がある。その時は路線バスは廃止されてしまっていて早朝の大台ケ原登山バスしかなかったが、その後、町営・村営のコミュニティバスが運行を始めたようなので、本数は少ないがこれを利用すればよいだろう。
 吉野から朝日館のある柏木へ馬の通行(荷駄)が辛うじて可能な五社峠の峠道が付けられたのは明治20年ごろ、五社峠を迂回し国栖を経由して吉野川沿いに自動車が通行できる道が開かれたのは大正9年(1920)、さらに現在の国道169号線の五社トンネルが開通したのは昭和48年(1973)である。朝日館が開業したのは明治半ばであり、外部との通行は徒歩や馬によらなければならなかったような場所に、どうしてこのように瀟洒な旅館が出現したのか、不思議である。一因としては柏木が大峰山の登山口のひとつになっていて吉野山から登下山するよりも距離が短いことがあげられるが、その時代に大峰山への登山客や修験行者が専業旅館の経営を支えるほど多くいたとも思われないのである。

<朝日館> <楽天トラベル> <旅籠宿に泊る> <国道169号線旧道> <Google地図> <地理院地図>

東熊野街道と朝日館
 写真右側方面に吉野川があり、上流側から下流向き(北向き)に撮影した写真である。街道をはさんで2棟の建物があるが、宿泊室はすべて左側(山側)の棟にあり、右側(川側)は厨房や経営者の住宅となっている。
 山側の客室棟は急傾斜地の建築であり、街道に面して玄関のある1階は建築全体から見ると地下階の位置付けとなる。この1階部分は外観・内部ともにかなり改装されていて、街道から向かって中央に玄関、その右側に応接室、左側に浴室がある。玄関を入って正面の階段を上がると2階の廊下をはさんで中庭がひろがり、この2階が実質的には地上1階である。
 客室は基本的には8畳または6畳の二間続きで1組である。建物の2階部分は中庭を囲むようにコの字型をなしている(航空写真)。コの右辺を街道側とすれば、街道に面した右辺に5・6号室および7・8号室の2組、コの上辺に20・21号室、下辺には8畳一間の12号室がある。2階の洗面所とトイレ(洋式1和式2朝顔2)は共同である。和式は汲み取りで、紙もロールではなく平判とするなど芸が細かい。堆肥にするためにはロールペーパーは不都合なのかもしれない。
 2階12号室の上には3階があり、鶴・亀の二間続き(バス・トイレ付)がある。3階とはいっても山側は地上レベルになっている。この部分の建築年代は他より新しいようだ。
 

20・21号室
 手前が20号室(6畳)、奥(山側)が21号室(8畳)。中庭に面した南向きの部屋である。夕食は21号室でいただいた。朝日館だけあって夕食で提供されるビールはアサヒビールで、旅館の表看板や館内のにもアサヒビールのロゴが入っている。布団は20号室に敷いていただく。朝食については客室ではなく1階の応接間でいただいた。

20・21号室の中庭側の廊下
 朝日館の魅力の一つは廊下とそのガラス戸の美しさであろう。廊下というよりは広縁というべきかもしれないが、館内の廊下は昔そのままに仕切りなどなく全てがつながっており、たとえば7・8号室の中庭側の廊下は他の部屋やトイレなどに行く客も通行する。それに対して20・21号室の中庭側の廊下は行き止まりになっていて、他の客が入ってくる恐れはほとんどないから、部屋の障子をあけ放って中庭をゆっくり眺めるには21号室が最適と思われる。ただし、5~8号室であっても街道に面した側の廊下には部屋の前まで他人が入り込むことはないであろう。なお、5・6号室の山側は廊下を挟んで20号室に向かい合うため中庭の眺望はない。

柏木風景
 吉野川左岸の柏木集落から右岸の神之谷(こうのたに)方面へ渡るつり橋からみた柏木集落。朝日館はここから左(上流側)へ200mほどの所にあり、この写真の画角からははずれている。
 葛生賢監督の映画「吉野葛」で津村とお佐和が下駄を鳴らしながらつり橋を渡るラストシーンがここで撮影されたそうだが、谷崎潤一郎の原作ではさらに上流の入之波(しおのは)にかかるつり橋となっていて、ここではないのである。

津村と私とは相談の上、暫くめいめいが別箇行動を取ることに定めた。津村は自分の大切な問題を提げて、話をまとめてもらうように昆布家の人々を説き伏せる。私はその間ここにいては邪魔になるから、例の小説の資料を探訪すべく、五、六日の予定で更に深く吉野川の源流地方を究めて来る。第一日目は国栖を発し、東川村に後亀山天皇の皇子小倉宮の御墓を弔い、五社峠を経て川上の荘に入り、柏木に至って一泊。
谷崎潤一郎吉野葛」より引用。「」の友人で大阪島之内の若旦那「津村」の母恋譚そして求婚譚である。国栖集落にある津村の母の実家昆布家」で彼が婚活する間、「」は後南朝を題材とした小説執筆取材のために、吉野川上流の柏木から大和・紀伊国境にかけての踏査を計画する。 「吉野葛」が発表されたのは昭和6年(1931)、小説の設定は「既に二十年ほどまえ、明治の末か大正の初め頃のこと」となっている。この小説では吉野川を遡って下市から宮瀧・菜摘に至るまでの描写は精緻なのだが、それより上流の記述は著しく粗雑である。しかし、もし「柏木に至って一泊」が事実であるとすれば、それは朝日館としか思われないのである。
日本の佳宿