ゑちごや 長野県・中山道奈良井宿 <ゑちごや旅館> <旅籠宿に泊る> <塩尻耕人> <Google地図> <地理院地図> 2018年3月訪問

奈良井宿の屋並
 JR奈良井駅は塩尻から30分弱であるが、電車は1~2時間に1本程度しかなく、駅を利用する観光客はほとんどいない。駅は奈良井宿の北端にあって、宿場に入るとさすがに観光客がめだつが、この日は露地にはまだ積雪が残る季節ということもあってか、休日でもあまり混雑している感じではなかった。
 ゑちごやは駅から宿場沿いに10分ほど歩いた街道左側にある。写真左の一番手前がゑちごや。中山道に面した間口は5~6mしかないが、奥行きは中央本線の線路に達するまで30m以上もあり、非常に細長い敷地となっている。建物は街道に面した母屋と奥座敷の2棟であり、それらを渡り廊下が結んでいる。隣は日野製薬の百草本舗。かつてゑちごやでも副業で製薬していたということで、玄関には御嶽講の招き看板に交じって「日野商人休泊所」の看板もある。

母屋の勝手
 街道に面した玄関から入って最初の部屋。現在は中央の仕切り(写真右の暖簾がかかっている戸)で台所と分けてあるが、もともとは竈や囲炉裏があった台所と一体であったらしく、屋根までの高い吹き抜けになっており煙出しの天窓がある。また、昔は玄関の右端から母屋を貫通する叩きの通路もしくは廊下に沿って奥へ部屋が並んでいたのかもしれなが、現在は写真左奥にみえるように部屋の中を通って奥の中庭へ抜けていくようになっている。
 中庭へと通過する部屋の中には仏壇のある居間や子供部屋もあって、小学生ぐらいの姉妹がそろってあいさつしてくれる。子供たちは宿を継ぐ意向を持っているとのことで、まったく心強いかぎりである。これらの部屋の2階には8畳・6畳・4畳半の3部屋計18畳半の客室があるが、冬の期間は使用しないとのことであった。また勝手の空間を挟んで反対側の通りに面した玄関上にも小さな2階があり、勝手の玄関側(この写真の背後側)にはその2階へ上がるための箱階段がみられる。

奥座敷への渡り廊下
 母屋の玄関から屋敷の左端一直線で渡り廊下、奥座敷廊下(一段高くなっている先)、さらにその先(突き当りのガラス戸)にある新築のトイレへとつながる。左には中庭と座敷の濡縁が見える。この渡り廊下の部分は外の側道から見ると基礎がコンクリートでできているから、渡り廊下は戦後の築造と思われる。

奥座敷
 8畳が2部屋で合計16畳である。奥の部屋の障子を開けると縁側になっており、縁側の外には小さなベランダが設けられている。敷地の傾斜のため、ここは裏から見ると2階屋ほどにも高くなっていて、ベランダからは中央本線の線路やその向こうの洗馬川がよく眺められる。書院の障子裏を通り、渡り廊下からの通路との角には新しいトイレ(洋式および小便器)がある。母屋のトイレがどうなっているのかわからないが、おそらく奥座敷専用のトイレだと思われる。
 奥8畳で夕食をいただいている間に、手前の8畳には布団を敷いてもらえる。手前8畳の障子外にも縁側があり、その外の中庭側には濡縁がついている。奥座敷の建築は母屋とくらべると少し新しいような気もしたが、この点を主人の9代目越後屋藤兵衛に尋ねてみると、母屋と同じく寛政年間(1789~1801)の創業当初からの建築ということであった。

私は、この奈良井へ、不思議な縁で兩三度時局の講演に行つた。 そのために、街にも、人にも、特に深い親しみを有つている。 街の中ごろ、左側に、越後屋といふ古風な宿がある。 街の人々は講演があると、いつもそこで、私の好物のソバを御馳走してくれる。 家の中は、焚火に燻ぶって黑くなっているが、それがいかにも山家の宿を想はせるものがあった。 ある時は炬燵にあたって街の人々とソバを啜つた。 また、ある時は筧の山水に晒した冷たいのを河鹿の聲を聽きながら食べたこともあった。 人なつこい宿の人達の親切、私は、ひとり氣儘な旅をして、この家に一夜ゆつくりと泊つてみたいとはなしたとき、そこの主人のはなしで、やつぱり、私と同じ思ひを有つ人に田部重治氏があり、茨木猪之吉氏があることを知つた。 特に、茨木氏は、深く、奈良井とこの越後屋を愛して、ここで新婚の宿りをしたとのことである。
小西民治随筆 山に悟る」(昭和十六年,墨水書房)の中の「木曾の宿驛」より引用。原文は一文ごとに改行されている。:糸へんに彖。 時局の講演:小西民治は読売新聞社に勤務し講演部長(現代の報道機関の論説委員や解説委員のようなものか)を務めるかたわら熱心に登山を行った。 有つ:もつと読ませるのであろう。 田部重治茨木猪之吉:それぞれ、山岳文学者、山岳画家とでも言うべき著名人。

日本の佳宿