羽黒山斎館(参籠所) 山形県鶴岡市・出羽三山神社 2024年9月訪問

 現在の出羽三山神社斎館は、明治初期の廃仏毀釈以前の羽黒山華蔵院の建物である。華蔵院は、蜂子皇子(蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇の第3皇子)が聖徳太子の援護を得て都を逃れ、紀元606年(あるいは593年とも言われる)に出羽三山を開山した際にまず設立された法頭五院・三先達のうちの一院と言われる。華蔵院はその後たびたび焼失したが、貞享3年(1686)の全焼の後、翌年(1687)から元禄10年(1697)までの間に順次再建されたという記録がある。そこで、一般的にこの斎館は1697年の建立であるとされていて、そうだとすれば羽黒山内では国宝 五重塔(1372年)および重要文化財 鐘楼(1618年、鐘の銘は1275年)に次いで3番目に古い建造物ということになるが、斎館の年代については後述のように若干の疑問がある。なお、山麓には重要文化財 正善院黄金堂(こがねどう 1596年)がある。
<羽黒山参籠所「斎館」> <Google地図> <地理院地図>

玄関
 齊館へは徒歩で山麓からの参道脇の入り口から長屋門を通って玄関に到着するのが普通であるが、自家用車やタクシーであれば羽黒山駐車場から本社前を通過し、少しくだって玄関わきの広場までアプローチすることができる。また、羽黒山駐車場へは通年で鶴岡駅から路線バスの便があり、駐車場から齊館までは徒歩約10分である。本殿(本社)とは100mほどの階廊で連結している。
 一説によれば、正面に唐破風をあげた玄関部分は、華蔵院と同じく法頭五院・三先達のひとつで本殿の反対側にあった正隱院からの移築であり、安土桃山時代(1573~1603年)の遺構であるという。玄関の左右に見える軒下の張り出し部分は昭和中期以降の増築である。
 この玄関の左手には2023年に新築されたかなり大きなトイレ棟があるのだが、不思議なことに既存の環境と良く融和していて目障りでない。内部の設備も最新式で、夜間の使用も非常に快適であった。このトイレが新築される以前にも同じ場所にトイレがあったのだが、それがいつ増築されたのかはわからない。なお、洗面所は玄関右手の食堂前にある。

広間
 齊館の中心部。手前24畳、奥の神前16畳・右手前15畳・右奥12畳の合計67畳を打ち抜いた広間である。正面の表額は「羽黒三所大権現」。 この左手には13畳敷きの廊下を挟んで、12畳3間・10畳3間・広縁(入側)12畳 合計78畳の広間がある。つまり、廊下の障子を外してこれらをすべて打ち抜いたならば158畳敷きの広間が出現するわけで、実に壮大な建築である。
 広間では翌日の団体客のための多数の膳が並べられていた。齊館では宿泊のほかに昼間の参拝客や観光客に精進料理を手広く提供しており、羽黒山神社本殿での結婚式の披露宴も行われるようある。広間はもっぱらそのような昼間の食事・宴会に用いられていて、この広間を襖や板戸で仕切って夜間の宿泊室とすることは現在ではほとんどないと思われる。
 

上段・下段の間
 手前の15畳が下段の間、左奥の12.5畳が上段の間である。私どもの宿泊のために供されたのは下段の間だけであるが、上段の間には翌日の会食のための膳が用意されていただけで、折角なので襖を開け放って撮影させていただいた。
 これらの部屋は広間からは祭壇や物置を隔てて拡張された建屋部分にあって、広間からの独立性が高く、少人数の宿泊によく使われているようである。下段の間のの向こうには8畳2間があるが、これらは物置として使われている。上段の間の書院には菊の紋章が透かし彫りになっており、勅使の間とも呼ばれている。上段の間の床の間裏側には茶室(香嵐亭)が設けられており、面積は小さいだろうが宿泊室にも使用されている。この茶室まわりは明治以降にもたびたび改修されているようである。

新館
 上段・下段の間から中庭を隔てて見た新館。いつごろ増築されたのかはよくわからないが、これもまた周囲の環境と良く融和した好建築である。北西側傾斜地にあって、写真左の旧舘からの渡り廊下から入ると新館の2階である。2階の広縁からは庄内平野を展望できるらしい。1階と2階のそれぞれに、襖で仕切られた8畳2間、12畳2間30畳1間(打ち抜けば70畳の広間)と、トイレ・洗面所がある。
 この日は9人の講の団体が新館の2階に宿泊していて、この一行は翌早朝にはかなり本格的に本社に参拝していた。全員が大ぶりな数珠を持参しており、神仏習合の羽黒山信仰が今なお根強く生き続けていることを感じさせられた。

元禄11年(1698)6月に記された「羽黒山華蔵院縁起」(中略)によると、(中略) 火災などで旧記を失い往古の事は不詳としているが、同縁起には寛文9年己酉(1669)5月5日宥尊代に自火焼失して一物も残さずと伝える。(中略) 貞享3年丙寅(1686)霜冬又々自火回録の災を生じて悉く焼失し、清海は改めて再建に献身して翌4年まづ庫裡を作り、元禄10年(1697)までに客殿・書院・文庫・仏像・法具等を悉く整備して華蔵院を中興したと記されている。
横山秀哉羽黒山出羽神社の修験寺院について」日本建築学会論文報告集, 63, pp.577-580, 1959.
 この論文には、明治14年(1881)に華蔵院が羽黒山神社に献納された際に作成された間取図(第1図①)とともに、昭和33年(1958)に作成された齊館の実測図(第2図)が掲載されている。これらを現状と比較することによって、増築(新館トイレ浴室、調理場、玄関脇の下足入と物入、西端廊下に沿った細長い物入、東北端の2室)および台所や茶室周りの改修のほか、板縁を入側(畳敷)としたり、いくつかの部屋の用途変更などの模様替えが認められるが、齊館の主要部分は明治14年(1881)以前の華蔵院の旧態が非常によく保たれていることが確認できるのである。 現在の受付(事務所)を含む斎館の東側部分は、方丈・居間と言うような僧侶の住居部分であったかと思われる。その南側の旧来の台所は現在食事処となっており、調理場は浴室およびその2階部分と合わせてそのさらに南側に建て増しされている。
 そこで、もし羽黒山華蔵院縁起に記載の再興された華蔵院の建築が現存の斎館であるとするならば、まず1687年に現斎館の東側部分(庫裡)を建築、ついで庫裏の西側に連結する形で中心部(客殿)を建築、そして1697年までに客殿祭壇の裏側に北側部分(書院)を拡張したと解釈される。

 一方で、元禄11年(1698)から明治14年(1881)までの183年間の華蔵院建築の動静については、文献や棟札などの確たる記録はないようである。これが、国指定文化財(国宝・重要文化財・登録有形文化財)に指定されていないことの一因であろう。 ここに、嘉永6年(1853)の木版刷り「湯殿月山羽黒三山一枚繪圖」(草画:錦江齊春、彫工:高橋良助)を参照すると、現在の斎館(長屋門や玄関を含む)とほとんど同じ外観や配置の華蔵院が描かれていることが確認できる。ところが、宝永7年(1710)発刊の「三山雅集」(発起:文殊院呂笳、選述:野衲東水)の挿画に描かれた華蔵院(花蔵院)は、長屋門の正面に宝形造の仏堂が置かれ、その西側に3棟の僧房が配置されるという、およそ現在の斎館とは似ても似つかない境内構成になっている。また「羽黒山華蔵院縁起」の庫裡・客殿・書院・文庫に関する記述は(私は原文は見ていないのだが)、齊館のような一体構造で建て増し・拡張したのではなく、「三山雅集」にあるような個別の建屋を順次に建てたと解釈したほうが自然である。これらの点から、華蔵院(現 齊館)は1710年以後から1853年以前までの約140年間に少なくとも1回は全面的に建て替えられていると考えるのが妥当ではないだろうか。
 東北から北陸にかけての日本海沿岸は地震被害もたびたび生じている。1804年の象潟地震は断層変位により名勝象潟の地形を一変させたことで有名であるが、羽黒山内では灯籠が倒れる程度の被害であったらしい。
日本の佳宿