池に臨む2棟のうち、中央が浮見堂(浮御堂)、右が「松の間」。この2つをあわせて臨池閣と称するのであろう。池は魚躍沼と称される。
左側のやや高い位置にある赤い庇の建物が
鳳翔台。鳳翔台は昭和50年(1975)に焼失し、昭和52年(1977)に復元されたもので、その折に八景亭から彦根市に返還され、昼間は観光客相手の茶屋となっている。
背後は彦根城本丸がある金亀山(こんきやま)。庭園から見る角度によっては臨池閣とともに
天守をのぞむことができる。
浮見堂は13畳、「松の間」20畳。そのほか臨池閣と鳳翔台をつなぐ
廊下に沿って「紅葉の間」「梅の間」「
新六の間」の小部屋が並んでいるが、これら
3室は宿泊には使われなかったと思われる。
手前側が
楽々園にも続く蓮池。左に見える七間橋の向こうが魚躍沼である。七間橋と小さな石橋がかかる小島には実に立派な五葉松がある。臨池閣「松の間」の正面にあたるからその名称の由来だろう。
1820年頃に描かれたと思われる玄宮園図(彦根城博物館蔵)には島に数本の若い松が描かれている。そのうちの1本(たぶん魚躍沼寄りに描かれた1本)が200年を経た姿にちがいない。玄宮園図には植栽だけでなく臨池閣の建物も現在そのままの姿が精緻に描写されており、臨池閣と五葉松は互いにその長寿を競い合うかに見える。
私は八景亭を3回訪れて、浮見堂と松の間のお好きな方をお使いくださいと言われたこともあったけれども、結局、3回ともに浮見堂に宿泊した。しかし、せめて1泊は松の間として五葉松をじっくり眺めたかったと思う。もう旅館として復活することはないだろうけれども、臨池閣やくだんの五葉松がすぐさま消失することもあるまいから、機会があれば松の間から五葉松と対面してみたい。
座敷や
縁側からは近江八景になぞらえたという壮大な庭園を一望することができ、近現代の建築物などは一切目に入らない。ときには庭園が
ライトアップされることもある。
玄関や松の間がある建物から
渡り廊下を渡って池に乗り出す格好であり、しかも渡り廊下は松の間側の
襖でも締め切ることができるので、非常にプライベート感のある
食事や
宿泊を堪能できる。池をはさんで
松の間と向かい合う北西面には目隠しのためか
屏風が立てられている。
風呂・
洗面所・トイレ(
洋式と
朝顔)は鳳翔台への渡り廊下の途中にあり、松の間との共用である。
建物は大変に華奢なつくりで、いまにも屋形舟のごとく池にゆらぎ出すかに思われる。とくに南角部の縁側は
勾欄の欠損や
敷板の隙間も多くて、うっかりすると踏み抜いて池に落ちるのではないかと心配になるほど。
玄宮園図では浮見堂の縁側は全て板敷で、もちろんガラス戸は描かれていないが、現状では北東の
池に面した縁側には畳が敷かれ、軒先にはガラス戸がたてられている。それに対して、こちらの中庭に面した縁側は旧態を非常によく保っている。エアコンを取りはずしたならば、まさに300年前の姿そのものであろう。いっそのこと、電気照明も排して、燭台に戻してみてはいかがだろうか。冗談ではなく、きわめて現実的にそのような提案をしたくなる空間である。
玄宮園は日本を代表する大名庭園であり、映画や時代劇の舞台としてもよく使われている。昼間は有料で一般にも公開されるが、夕方から朝までは八景亭の宿泊客だけが自由に散策できる贅沢な空間となる。大名気分とはこのことだろう。浮見堂の場合、
南西側の
縁側から直接に庭園に出ることができる。
玄宮園の向こう側、現在は球場などがある一帯には戦前まで琵琶湖の入江内湖が間近に広がっていた。当時としては琵琶湖を借景としてうまく取り込んだほうがよかったのかもしれないが、今となっては閉じた空間として玄宮園が往時のままに保たれていることが貴重である。