八景亭 滋賀県・彦根城 2006年8月・2013年5月・2015年5月訪問

 彦根藩主 井伊家下屋敷は藩主の住まい(槻御殿)があった楽々園と呼ばれる区域と、玄宮園(槻之御庭)と呼ばれる庭園部分にわけられる。八景亭は広大な玄宮園の池にせり出すように建てられた茶亭であり、藩政時代には「臨池閣」と言われた。玄宮園は第4代藩主 井伊直興 により1677年から1679年にかけて造営され、臨池閣も同時期の建築である。安政の大獄や桜田門外の変で有名な第15代藩主 井伊直弼(1815-1860) も槻御殿で生まれてから17歳まで下屋敷で過ごしたというから、臨池閣しばしば昼寝などしていたのではないだろうか。直弼の青年時代においてさえも既に築150年を経て、建物や周囲の様子は現在と変わらないものであっただろう。
 臨池閣は明治19年(1886)に井伊家から民間に貸し付けられて料理旅館として開業、昭和9年(1934)に経営者が代わった際に八景亭と名付けられた。昭和19年(1944)に玄宮園を含む彦根城全体が井伊家から彦根市に寄付された後も代々営業を続けたが、平成29年(2017)に旅館を廃業したことは残念というしかない。これほど贅沢な宿が今後出現することはないであろう。

<玄宮園図> <Google地図> <地理院地図> <Wayback Machine>

臨池閣八景亭と鳳翔台
 池に臨む2棟のうち、中央が浮見堂(浮御堂)、右が「松の間」。この2つをあわせて臨池閣と称するのであろう。池は魚躍沼と称される。
 左側のやや高い位置にある赤い庇の建物が鳳翔台。鳳翔台は昭和50年(1975)に焼失し、昭和52年(1977)に復元されたもので、その折に八景亭から彦根市に返還され、昼間は観光客相手の茶屋となっている。
 背後は彦根城本丸がある金亀山(こんきやま)。庭園から見る角度によっては臨池閣とともに天守をのぞむことができる。
 浮見堂は13畳、「松の間」20畳。そのほか臨池閣と鳳翔台をつなぐ廊下に沿って「紅葉の間」「梅の間」新六の間の小部屋が並んでいるが、これら3室は宿泊には使われなかったと思われる。

臨池閣と五葉松
 手前側が楽々園にも続く蓮池。左に見える七間橋の向こうが魚躍沼である。七間橋と小さな石橋がかかる小島には実に立派な五葉松がある。臨池閣「松の間」の正面にあたるからその名称の由来だろう。
 1820年頃に描かれたと思われる玄宮園図(彦根城博物館蔵)には島に数本の若い松が描かれている。そのうちの1本(たぶん魚躍沼寄りに描かれた1本)が200年を経た姿にちがいない。玄宮園図には植栽だけでなく臨池閣の建物も現在そのままの姿が精緻に描写されており、臨池閣と五葉松は互いにその長寿を競い合うかに見える。
 私は八景亭を3回訪れて、浮見堂と松の間のお好きな方をお使いくださいと言われたこともあったけれども、結局、3回ともに浮見堂に宿泊した。しかし、せめて1泊は松の間として五葉松をじっくり眺めたかったと思う。もう旅館として復活することはないだろうけれども、臨池閣やくだんの五葉松がすぐさま消失することもあるまいから、機会があれば松の間から五葉松と対面してみたい。

浮見堂
 座敷や縁側からは近江八景になぞらえたという壮大な庭園を一望することができ、近現代の建築物などは一切目に入らない。ときには庭園がライトアップされることもある。玄関や松の間がある建物から渡り廊下を渡って池に乗り出す格好であり、しかも渡り廊下は松の間側のでも締め切ることができるので、非常にプライベート感のある食事宿泊を堪能できる。池をはさんで松の間と向かい合う北西面には目隠しのためか屏風が立てられている。風呂洗面所・トイレ(洋式朝顔)は鳳翔台への渡り廊下の途中にあり、松の間との共用である。
 建物は大変に華奢なつくりで、いまにも屋形舟のごとく池にゆらぎ出すかに思われる。とくに南角部の縁側勾欄の欠損敷板の隙間も多くて、うっかりすると踏み抜いて池に落ちるのではないかと心配になるほど

浮見堂(中庭側)
 玄宮園図では浮見堂の縁側は全て板敷で、もちろんガラス戸は描かれていないが、現状では北東の池に面した縁側には畳が敷かれ、軒先にはガラス戸がたてられている。それに対して、こちらの中庭に面した縁側は旧態を非常によく保っている。エアコンを取りはずしたならば、まさに300年前の姿そのものであろう。いっそのこと、電気照明も排して、燭台に戻してみてはいかがだろうか。冗談ではなく、きわめて現実的にそのような提案をしたくなる空間である。

天守から俯瞰する玄宮園
 玄宮園は日本を代表する大名庭園であり、映画や時代劇の舞台としてもよく使われている。昼間は有料で一般にも公開されるが、夕方から朝までは八景亭の宿泊客だけが自由に散策できる贅沢な空間となる。大名気分とはこのことだろう。浮見堂の場合、南西側縁側から直接に庭園に出ることができる。
 玄宮園の向こう側、現在は球場などがある一帯には戦前まで琵琶湖の入内湖が間近に広がっていた。当時としては琵琶湖を借景としてうまく取り込んだほうがよかったのかもしれないが、今となっては閉じた空間として玄宮園が往時のままに保たれていることが貴重である。

 八景亭は彦根城の東側の濠向うにあり、藩主の別邸として、一六七七年に工を起こし、七年で竣工したが、唐の玄宮園を模した庭で名高く、今は割烹旅館になつてゐる。近江百景自体がさうであるが、この庭も瀟湘八景に倣ってゐる。因みに瀟湘八景とは、平沙落雁、遠浦帰帆、山市晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、漁村夕照の八つを言ふのである。
三島由紀夫絹と明察」(講談社, 1964)
関が原から彦根へ出て、旧藩のころ欅御殿とよばれ藩主の下屋敷だった〔楽々園〕で夕飯をすまし、庭園〔玄宮園〕つづきの八景亭へ泊まった。彦根には、まだガスもひかれていず、水道もようやく近年通じたほどで、この旧態を濃厚にとどめた宿の一室にいると、われわれは、まったく百年前の空気にひたることができる。
池波正太郎近江の秋」(朝日文芸文庫「私が生まれた日―池波正太郎自選随筆集<1>」, 初出:「新年の二つの別れ」朝日新聞社刊, 1977)
そのころ、一人旅の若者が、旧井伊家の下屋敷だった〔楽々園〕や〔八景亭〕で食事どきに芸妓をよぶと、翌日には親切に彦根の案内をしてくれたりする。
池波正太郎近江・招福楼」(新潮文庫「散歩の時何か食べたくなって」)
 招福楼は彦根ではなく八日市に所在するが、彦根の花街の心地よさについても記述している。「そのころ」とは昭和40年(1965)より以前を指すものと思われる。
知る人ぞ知る宿だ。なにしろ観光ガイドブックの類にはほとんど載っていない。しかも、ここに宿泊できるとは思えない茅葺き屋根の侘びた風情。それもそのはず、この日本家屋は、特別史跡・彦根城跡内の名勝「玄宮園」の中に佇む、築330年近い大名下屋敷をそのまま利用した料理旅館なのである。屋敷が池に浮かんでいるため、客室からの眺めは、タヒチの水上コテージにも似た不思議な浮遊感がある。大名庭園を愛でながら、殿様気分、お姫様気分が味わえる。こんな宿、おそらくほかにはないだろう。
三好和義楽園宿」(小学館, 2006)
 この「観光ガイドブック」的な紹介文はどうかと思うが、あまり人に知られていない「知る人ぞ知る宿」というのはその通りで、当時は楽天トラベルにも掲載されていたので、ちょくちょく見ていたのだが、満員(と言っても2組だけだが)になっていたという記憶がない。大型連休で京都方面が大混雑しているときでも容易に予約が取れることが多かった
日本の佳宿