寿屋 新潟県・長岡駅前 2007年6月訪問

 現代的なビルが立並ぶ長岡駅のどまんまえ、大手通りと城内通りの角の繁華街にありながら人の気配が希薄で、長年にわたって地元住民にも不思議がられる謎めいた老舗旅館だった。いつごろからある旅館なのかも不明だが、創業は明治年間にまでさかのぼる可能性が大きい(後述)。旅館の敷地は縦横40mほどの土地を田の字に分けた対角の2区画となっており、その南北2区画は廊下1本でつながっている(航空写真)。
 この一帯は1945年8月1日の長岡空襲で完全に焼失した。1946年の米軍航空写真では城内通りはまだ開通しておらず、現在の駅前ロータリーにまで民地(バラックのようなのもが点々と)が続いている。1948年まで航空写真では寿屋旅館の建物は存在していないが、大手通商店街の1953年の写真に寿屋旅館が写っている。1962年の映画「故郷は緑なりき」には長岡駅を背景とした寿屋旅館の看板が写っている。いつ旅館を廃業したのかもはっきりしないが、2016年の年末に解体され、現存しない。殺風景なビジネスホテルにとって代わられた、味のある「駅前旅館」の典型と言えるのではないだろうか。

<Google地図> <地理院地図> <大手通商店街>

城内通り側の入り口
 旅館の入り口は南側区画に2か所ある。これは城内通りを挟んで長岡駅正面にある入り口。正式な玄関は写真左「越後炊き乃家」(店舗の入れ替わりが頻繁)の角をまわった大手通り側にあり、城内通り側は締め切られているようだった。これらの商店の背後はすべて旅館の敷地で、入り口だけやっと表通りに残したという感じである。1974年より前に撮影されたと思われるカラー動画の一場面黄色いポール看板の背後)は、その当時には城内通り側にかなりの間口を有していたのではとうかがわせる。
 入り口の上の電光看板(?)では「旅館ことぶきや」とひらがな表記になっているが、「壽」や「古登ぶき」が使われることもあり、ガラス戸の「寿」もそうなのだが、旧字体・略字体・変体仮名などの多彩な表記が用いられる。ちなみに看板上部にあるキャッチコピーは「駅前の靜かな奥座敷」だと思うが、なぜか「敷」の字が紙で隠されている。

大手通り側の玄関
 「駅前の靜かな奥座□」と呼ぶにふさわしい風情をただよわせる表玄関。旅館として営業しているのかどうかもあやしい雰囲気だったが、ダメもとで案内を乞うたところ、中年のおじさんが出てきて、あっさり宿泊可能となった。ただし素泊まりかつ部屋の準備が必要とのことで、なかに入るのは周辺で夕食を済ませてからとなった。
 旅館の敷地にはこの玄関周りも含めて植生が多いが、決して荒れている感じではなく適切に手入れされて下草などはよく整理されている。上記の電光看板でもそうなのだが「P」(駐車場あり) が強調されている。駅前旅館ではあるが、自家用車での通りがかりの客も多かったものと思われる。なお、玄関に掛かっている表看板「御旅館寿屋」の「館」(偏は旧字体、旁は略字体)は古い旅館の看板でよく見られる書体である。

奥の廊下
 日も暮れて、いよいよ奥へ。館内はかなり複雑で、南区画の表玄関から相当の紆余曲折を経て、南北区画間の渡り廊下をわたって左側、つまり北区画の建物の1階南西角あたりだと思うが、確かではない。奥の階段横が宿泊した部屋になる。
 いずれにしても北区画の客室部分に行くためには城内通り側入口から入ったほうが便利であることは間違いなく、昔は宿泊客が出入りする玄関としては駅正面の城内通り側入口がメインに使われていたものと思われる。

客室
 それぞれの客室には小さいながらも床の間がある。本来、床の横には違い棚等のある壁を配するべきであろうが、ここでは書院と融合したような造りである。その他の部屋の例1例2例3例4も参照。特に例2の蝙蝠をかたどった明り取りの窓枠と桟のデザインの組み合わせは不気味ながらも秀逸ではないか。蝙蝠の図柄は蝠が福に通じる縁起物として古い旅館の欄間や戸板などにも散見される意匠である。
 各部屋は一見すると雑然としているが、決して荒れ果てているという感じではなく、急な客があっても少し時間をとって整頓すれば十分に客室として使える状態であった。ブラウン管テレビも、この当時にはそこまで時代錯誤的なものではなかったのである。

北側の区画の宿泊棟
 北側の裏通りまで旅館の敷地が広がっており、城内通りに平行な向きに軒の客室棟が並んでいる。これらの建物は背の高い樹木に屋根の上をほとんどおおわれていた。
 左の写真は階段上の2階から東側の建物をみたところ。1階部分の側柱つきで幅のせまい庇が雪国らしく印象的である。2階縁側の上半分にガラスが使われている雨戸が残っているのも珍しいのではなかろうか。戸袋の外板が外れて、内側から雨戸を押し引きして収納するための小さな引き戸が見えている。

付近の建物が新・改築を繰り返す中、独自のレトロ路線を固持。(中略)下記のごときミステリアスなエピソードが続々と寄せられているのであった。(中略)
かつて天皇陛下も宿泊したという衝撃の報告が。いつの天皇なのかは定かではないが、「後醍醐天皇だよ」とか言われても「そんなバカな」とは言えないオーラが同旅館にはある。(中略)
21世紀も寿屋健在を確信させる情報が。 「遠距離の恋人が来たので、シャレで『寿屋』に泊まろうということになって電話で確認を取ったら『満室です』という意外な返事が!」(中略)
広告には創業100周年と書かれ違い鷹の羽の紋までありました。 昨年発行のイエローページ中越版695ページです。
安吉の名にかけて!解答篇・寿屋旅館」より。  いつの天皇なのか:明治11年(1878)9月22日に明治天皇が長岡に行幸して表町小学校内の行在所に宿泊したが、寿屋の創業以前であろう。昭和22年(1947)10月10日午後から夕方にかけて昭和天皇が長岡に行幸したが長岡には宿泊していない。シャレで:本当に洒落ている。違い鷹の羽の紋:私がもらってきた寿屋旅館のマッチ箱には、鷹羽紋ではなく雪輪紋が描かれていた。昨年発行:具体的にいつなのかは不明であるが、少なくとも2010年以前の記事であることから、創業は1910年以前と推測される。ちなみに長岡駅の開業は1898年、国有化は1907年である。イエローページ:NTTが発行していた黄色い業種別電話帳。正式名称はタウンページ。
この日宿泊はできなかったが数時間休ませていただいた。 「満室」とのことだたけどお客の気配はなかったな。 館内にある全体案内図や、廊下の造り、飾られた絵画などに興味津津。
散歩で見た長岡市の建築、寿屋旅館。 」(純喫茶ヒッピー、2012年10月28日)より。飾られた絵画:ここに掲載されている雑然とした館内の画像を見ると、2012年には既に宿泊営業を事実上終了していたものと推察される。ことだたけど〔ママ〕
永六輔さんがその昔、講演に来た際に長岡駅で降りてすぐの寿屋旅館を目にして「長岡って面白いですね、街の顔というべき駅前にこんな旅館があるなんて」と枕で褒め殺ししてから本題に入った、なんて話を聞いたことがある寿屋旅館が奇しくも永六輔さんが亡くなった年に幕を閉じてしまうとは…(中略) 第15回長岡アジア映画祭で上映作『あぜみちジャンピンッ!』の宣伝で長岡入りした西川文恵監督は好奇心旺盛で 酒小屋のモツ煮込みに舌鼓を打ち、 寿屋旅館の話を聞いて興味を抱き、すぐさま宿泊希望の電話をしたら満席で断られてしまったそうです。 それを聞いて「んなわけねーだろ」と突っ込みを入れてたのも思い出話に…
寿屋旅館も消え去っていた。」(長岡アジア映画祭実行委員会!ブログ、2016年12月24日)より。 第15回長岡アジア映画祭:2010年9月開催。酒小屋:寿屋から大手町通アーケード沿いの4,5軒目にあった居酒屋。お酒のほかの料理はモツ煮込みだけだったという。戦後バラックの雰囲気をとどめる掛小屋であったが、2016年に寿屋とほとんど時を同じくして取り壊された。電話をしたら満席:2010年当時でも電話ごしで予約を取るのは難しかったであろう。酒小屋からは通り沿いにわずか30mほどなのだから直談判していただきたかった。玄関を敲いて案内を乞うただけでも忘れがたい印象を残したであろう。
日本の佳宿