旅館の入り口は南側区画に2か所ある。これは城内通りを挟んで長岡駅正面にある入り口。正式な玄関は写真左「越後炊き乃家」(店舗の入れ替わりが頻繁)の角をまわった大手通り側にあり、城内通り側は締め切られているようだった。これらの商店の背後はすべて旅館の敷地で、入り口だけやっと表通りに残したという感じである。1974年より前に撮影されたと思われるカラー動画の
一場面(黄色いポール看板の背後)は、その当時には城内通り側にかなりの間口を有していたのではとうかがわせる。
入り口の上の
電光看板(?)では「旅館ことぶきや」とひらがな表記になっているが、「壽」や「古登ぶき」が使われることもあり、ガラス戸の「寿」もそうなのだが、旧字体・略字体・変体仮名などの多彩な表記が用いられる。ちなみに看板上部にあるキャッチコピーは「駅前の靜かな奥座敷」だと思うが、なぜか「敷」の字が紙で隠されている。
「駅前の靜かな奥座□」と呼ぶにふさわしい風情をただよわせる表玄関。旅館として営業しているのかどうかもあやしい雰囲気だったが、ダメもとで案内を乞うたところ、中年のおじさんが出てきて、あっさり宿泊可能となった。ただし素泊まりかつ部屋の準備が必要とのことで、なかに入るのは周辺で夕食を済ませてからとなった。
旅館の敷地にはこの玄関周りも含めて植生が多いが、決して荒れている感じではなく適切に手入れされて下草などはよく整理されている。上記の
電光看板でもそうなのだが「P」(駐車場あり) が強調されている。駅前旅館ではあるが、自家用車での通りがかりの客も多かったものと思われる。なお、玄関に掛かっている
表看板「御旅館寿屋」の「館」(偏は旧字体、旁は略字体)は古い旅館の看板でよく見られる書体である。
日も暮れて、いよいよ奥へ。館内はかなり複雑で、南区画の表玄関から相当の
紆余曲折を経て、南北区画間の渡り廊下をわたって左側、つまり北区画の建物の1階南西角あたりだと思うが、確かではない。奥の階段横が宿泊した部屋になる。
いずれにしても北区画の客室部分に行くためには城内通り側入口から入ったほうが便利であることは間違いなく、昔は宿泊客が出入りする玄関としては駅正面の城内通り側入口がメインに使われていたものと思われる。
それぞれの客室には小さいながらも床の間がある。本来、床の横には違い棚等のある壁を配するべきであろうが、ここでは書院と融合したような造りである。その他の部屋の
例1・
例2・
例3・
例4も参照。特に
例2の蝙蝠をかたどった明り取りの窓枠と桟のデザインの組み合わせは不気味ながらも秀逸ではないか。蝙蝠の図柄は蝠が福に通じる縁起物として古い旅館の欄間や戸板などにも散見される意匠である。
各部屋は一見すると雑然としているが、決して荒れ果てているという感じではなく、急な客があっても少し時間をとって整頓すれば十分に客室として使える状態であった。ブラウン管テレビも、この当時にはそこまで時代錯誤的なものではなかったのである。
北側の裏通りまで旅館の敷地が広がっており、城内通りに平行な向きに
2軒の客室棟が並んでいる。これらの建物は背の高い樹木に屋根の上をほとんどおおわれていた。
左の写真は
階段上の2階から東側の建物をみたところ。1階部分の側柱つきで幅のせまい庇が雪国らしく印象的である。2階縁側の上半分にガラスが使われている雨戸が残っているのも珍しいのではなかろうか。戸袋の外板が外れて、内側から雨戸を押し引きして収納するための小さな引き戸が見えている。