京亭 埼玉県大里郡寄居町 2021年11月訪問

 「美しい宿」という言葉がぴたりと嵌まる。建築造営は1931年(昭和6年)からであるが、昭和初期の日本家屋にありがちな重苦しさが微塵もなく、軽妙にして粋、心はずむ。この軽やかな感じは意匠にとどまらず構造的な建てつけも素晴らしく、あらゆる障子や大きなガラス戸が指一本で音もなくすべるように開閉する。大正から昭和初期の作曲家 佐々紅華(1886-1961)の住まいであるが、紅華は工業デザイナーでもあり、建築にあたっては自ら設計図をひき、工事監督にもあたったという。建材も厳選されたに相違なく、大工の優れた技量もしのばれる。雄大な荒川の流れ(名勝玉淀)と対岸の鉢形城址を借景として存分に取り入れている点も特筆される。
<京亭> <東京事変-緑酒> <Google地図> <地理院地図>

寄居三宿
 鉢形城址から荒川北岸の寄居中心部をのぞむ。荒川の段丘崖の上には、左(上流側・西側)から玉淀館、ひさご旅館、そして京亭の建物が並ぶ。玉淀館は30年以上以前に廃業して荒廃気味であるが、地元の有志によってときどき手入れがされているようである。ひさご旅館も事実上の閉館状態のようだが、管理人は在住しているようだ。京亭の250mほど下流(写真右方向)には七代目松本幸四郎の豪勢な別邸(雀亭)があったが、京亭や玉淀館の建設と前後して売却され焼失したと言われる。秩父鉄道や東武東上線が電化されて東京との交通が利便になり、国鉄八高線も開通した大正~昭和初期は、寄居が最も活性化した時代だったのではないだろうか。
 段丘上には寄居の街が広がる。画面の右上方に見えるやや大きな建物は、寄居駅北口にある寄居町役場と南口にある閉館した商業施設。 画面の左上端は標高330mの鐘撞堂山、街のある段丘面の標高は約100m、崖下の川床の標高は75mほどである。

京亭の主要部
 左手前の一階建部分に8畳と6畳二間の客室、中央右の二階建部分の客室は上下階同じ間取りで、それぞれ10畳と6畳の二間である。宿泊としてはこの3組までであろう。そのほか写真右端の一階建部分に洋室があるが、これは宿泊には使える性質のものではない。
 京亭の特質は、佐々紅華の私邸として建設された後にほとんど改装を受けていないことである。このために、宿泊客はあたかも個人の邸宅に招待されたような感覚になる。各部屋に妙な室名や番号がつけられていないのも好感が持てる。
 左写真の中央部、松の木の根本付近に一階客室同士の目線を避けるための遮蔽板が見える。これは勿論、旅館として営業するようになってから設けられたものであろうが、私見を述べれば、この目隠板は不要であろう。どうせ広縁と濡縁は境目なく続いているのだ。一階のお隣にお客がいたならば面識はなくとも結構な趣味人に違いない。どうも、いいお庭ですな、まあおひとつ、なんて感じで縁側の角に腰かけてさらりと一献かたむける、深入りはしない、そういった宿である。

2階の座敷
 お洒落である。「いきという言葉も想起される。決して派手ではないが、ちょっと歌舞いた趣向が魅力的だ。広縁の高欄下に掃き出し窓のような高さの低いガラス戸がはめられているのが特徴的で、これが佐々紅華独自の設計かどうかはわからないが、他所では見たことのないつくりである。
 この部屋は歌舞伎俳優などの芸能人や文化人を招いて滞在させることを念頭においてデザインされているように感じられる。この10畳の主室手前には6畳の前室がついており、客は雑多な携行品をそこに置いたり寝室にしたりすれば、主室のハレが攪乱されることはない。さらに6畳間から階段を挟んだ反対側の廊下の北の突き当りという遠からず近すぎない絶妙な位置にトイレ洗面所があって、朝顔もあるので夜間の利用にも実に便利である。風呂は一階にあって他の座敷との共用であるが、これがまたゆったりくつろげる空間となっている。

2階から見る庭園と玉淀
 玉淀の流れの向こうの断崖上は鉢形城址である。こうして眺めると、不思議に庭園と川との間にある20m近い断崖を感じさせない。しかし、この高低差が崖直下の無粋なコンクリート遊歩道や制水工を視界から隠し、また玉淀河原の遊客の喧騒を見事に遮断してくれる。
 この上流(画面奥)は舟下りで有名な長瀞1964年(昭和39年)に玉淀ダムができたために長瀞と玉淀は分断された形であるが、以前は長瀞から延々15kmの舟下りを楽しめたという。トロ」といい、またヨド」といい、このように山間から平野に流れ出る直前の幅広でゆったりとした河川の情景をよく言い当てている。

北側の日常生活域
 川側(南側)とは反対側の座敷や浴室に囲まれた部分には中庭があるが、さらにその北側には厨房も含む日常生活域と呼べるような建物が小庭を囲むように並んでいる。内部に入ることはできないが、このように、ハレの座敷だけでなく屋敷のケの部分も当時のままに残され、使用されていることは貴重だろう。なお、これとは別に京亭と地続きの東側に従業員の住居などがあるようである。

私が泊まった旅館〔京亭〕は、荒川をへだてて鉢形城址をのぞむ絶好の場所にあった。 客は三組か四組しか泊まれないだろう。 もともと、旅館をするために建てたものではない。美しい庭から、真正面に鉢形の断崖をながめつつ、鮎でビールをのんでいると、旅館に泊まった気がしない。 (中略) 私は、隠居用に建てられた離れに泊ったが、小さなトイレがついていて、まことに寝心地がよかった。
池波正太郎よい匂いのする一夜」より。改行略。小説「忍びの旗」(新潮社,1979)の執筆取材のために鉢形城へ出かけた際の手記である。客は三組か四組しか泊まれない:現在の京亭のHPには「一日に二組のお客様だけしかご宿泊のご予約をお受けいたしておりません」とある。 鮎でビール:この日、池波正太郎は朝寝坊した上に、昼前からビールを飲んでまったりしていた。鮎料理鮎飯が京亭の特徴のひとつ。現在では一年中、鮎が食膳にのぼる。 隠居用に建てられた離れ一階建て部分の客室のこと。床の間には七代目松本幸四郎の隅押しが掛かっている。 小さなトイレ:部屋のある主屋に付随した別棟にあるトイレで、やはり部屋との距離感と独立性が絶妙で、普通に宿泊できる宿のトイレとしては最高峰であろう。

今から100年余り前(1913年)のことです。正喜橋の東袂に七代目松本幸四郎の『別荘が新築した時に祝賀会があった。招待客は長瀞から船下りを楽しんで別荘下に着き、「絶えず打ち上げらるる花火は山に響き川に伝わり、未曾有の盛況なりき」と新聞に報じられた』。(注3) それから十数年後、幸四郎の別荘は新開地からの火事が元で焼失し東京へ引き上げていきました。入れ替わるように鉢形城址を対岸に望む約3000平米の土地に総檜数寄屋造りの家を昭和6(1931)年から6年もの歳月をかけて建てられたのが現在の京亭です。
(注3)「寄居日和」埼玉新聞 渡辺恭伸
広報よりい」平成29年(2017) 12月号

日本の佳宿