鉢形城址から荒川北岸の寄居中心部をのぞむ。荒川の段丘崖の上には、左(上流側・西側)から玉淀館、ひさご旅館、そして京亭の建物が並ぶ。玉淀館は30年以上以前に廃業して荒廃気味であるが、地元の有志によってときどき手入れがされているようである。ひさご旅館も事実上の閉館状態のようだが、管理人は在住しているようだ。京亭の250mほど下流(写真右方向)には七代目松本幸四郎の豪勢な別邸(雀亭)があったが、京亭や玉淀館の建設と前後して売却され焼失したと言われる。秩父鉄道や東武東上線が電化されて東京との交通が利便になり、国鉄八高線も開通した大正~昭和初期は、寄居が最も活性化した時代だったのではないだろうか。
段丘上には寄居の街が広がる。画面の右上方に見えるやや大きな建物は、寄居駅北口にある寄居町役場と南口にある閉館した商業施設。
画面の左上端は標高330mの鐘撞堂山、街のある段丘面の標高は約100m、崖下の川床の標高は75mほどである。
左手前の
一階建部分に8畳と6畳二間の客室、中央右の
二階建部分の客室は上下階同じ間取りで、それぞれ10畳と6畳の二間である。宿泊としてはこの3組までであろう。そのほか写真右端の一階建部分に
洋室があるが、これは宿泊には使える性質のものではない。
京亭の特質は、佐々紅華の私邸として建設された後にほとんど改装を受けていないことである。このために、宿泊客はあたかも個人の邸宅に招待されたような感覚になる。各部屋に妙な室名や番号がつけられていないのも好感が持てる。
左写真の中央部、松の木の根本付近に一階客室同士の目線を避けるための遮蔽板が見える。これは勿論、旅館として営業するようになってから設けられたものであろうが、私見を述べれば、この目隠板は不要であろう。どうせ
広縁と濡縁は境目なく続いているのだ。一階のお隣にお客がいたならば面識はなくとも結構な趣味人に違いない。どうも、いいお庭ですな、まあおひとつ、なんて感じで縁側の角に腰かけてさらりと一献かたむける、深入りはしない、そういった宿である。
お洒落である。「いき」という言葉も想起される。決して派手ではないが、ちょっと歌舞いた趣向が魅力的だ。
広縁の高欄下に掃き出し窓のような高さの低いガラス戸がはめられているのが特徴的で、これが佐々紅華独自の設計かどうかはわからないが、他所では見たことのないつくりである。
この部屋は歌舞伎俳優などの芸能人や文化人を招いて滞在させることを念頭においてデザインされているように感じられる。この10畳の主室手前には
6畳の前室がついており、客は雑多な携行品をそこに置いたり
寝室にしたりすれば、主室のハレが攪乱されることはない。さらに6畳間から
階段を挟んだ反対側の
廊下の北の突き当りという遠からず近すぎない絶妙な位置に
トイレと
洗面所があって、朝顔もあるので夜間の利用にも実に便利である。
風呂は一階にあって他の座敷との共用であるが、これがまたゆったりくつろげる空間となっている。
玉淀の流れの向こうの断崖上は鉢形城址である。こうして眺めると、不思議に庭園と川との間にある20m近い断崖を感じさせない。しかし、この高低差が崖直下の無粋なコンクリート遊歩道や制水工を視界から隠し、また玉淀河原の遊客の喧騒を見事に遮断してくれる。
この上流(画面奥)は舟下りで有名な長瀞。1964年(昭和39年)に玉淀ダムができたために長瀞と玉淀は分断された形であるが、以前は長瀞から延々15kmの舟下りを楽しめたという。「トロ」といい、また「ヨド」といい、このように山間から平野に流れ出る直前の幅広でゆったりとした河川の情景をよく言い当てている。
川側(南側)とは反対側の
座敷や浴室に囲まれた部分には
中庭があるが、さらにその
北側には厨房も含む日常生活域と呼べるような建物が小庭を囲むように並んでいる。内部に入ることはできないが、このように、ハレの座敷だけでなく屋敷のケの部分も当時のままに残され、使用されていることは貴重だろう。なお、これとは別に京亭と地続きの東側に従業員の住居などがあるようである。