奥に見える黄色い壁が
流芳閣。この写真では見えないが、流芳閣のさらに奥に栖鳳閣が建つ。中央が玄関屋根(
車寄せ)であり、玄関と流芳閣の間にある瓦屋根が
ロビーや厨房である。ロビー・厨房の内部はかなり本格的に改修されている。
本館の1階の玄関左側には
2部屋があり、
夕食・
朝食会場となっていた。
玄関正面の
階段をあがった左側は
大広間である。いずれも梁柱の変状が激しい。天井裏の木組は見えないが、梁の断面に対してスパンを長くとりすぎであろう。
千歳楼下(西側)の不老ヶ池付近から見た栖鳳閣
松の間。ここは樹林帯がやや開けており、また流芳閣よりも懸が高く、松の間からはそれなりの展望が得られると思われる。左隣の袖の間からも樹間からわずかに濃尾平野の眺望があった。
文化庁国指定文化財等データベースによれば、本館は明治13年の建築、流芳閣は大正期の建築、栖鳳閣は昭和初期の建築となっている。本館と栖鳳閣の間にはかなり距離があり、配置からしても明治の本館の隣に大正、その奥に昭和という並びが自然であるが、仲居さんに本館から部屋までを案内された時の説明では「ここからは昭和の建物になります」「この先は大正の建物でございます」という順番であった。千歳楼のHPでも栖鳳閣 松の間について「大正天皇が御通りになった部屋」と記載がある。
10畳の座敷に
4畳の前室、そして合計8畳ほどの広縁がつく。また、部屋の西側(画像の右手前)には戦後の増築と思われるこの部屋専用の
風呂と
トイレが付帯する。部屋正面の南東側には樹間に濃尾平野もわずかに望めるが、
南西側の戸外は樹木に覆われている。屋根のメインテナンスがなされない期間が長くあったようで、特に
南西側広縁の
天井が痛んでいる。
座敷と広縁の間の万字崩しの欄間は特色のあるものであり、表裏2枚の桟の間に
大変にあかるい照明を入れてある。これはもちろん蛍光管であるから戦後になって設置された欄間であろう。一方、座敷や広縁の天井の照明は照度が大変に低く抑えられている。そこで、夕暮れあとで蛍光管を消灯すれば、燭台による照明の感覚になり趣深い。個々の照明のスイッチは全て室外の廊下にあり、不便なようだが悪い感じはしない。
広縁との間の鴨井は非常に大きく下がっていて、障子を動かすことは到底不可能と思えた。ところが驚いたことに夕食から帰ってみると座敷に布団が敷かれて障子が閉められていた。あの障子を日ごとに開け閉めするのは相当の手間であろう。翌朝、丁寧に障子を開いておいたが、それを見た従業員も「よくもまあ、この障子をあけられたものだなあ!」と感心したのではなかろうか。