千歳楼 岐阜県養老郡養老町 2023年5月訪問

 元正天皇が西暦717年にこの地の霊泉に行幸し、元号を養老と改めてから千年を経て創業したことから千歳楼(せんざいろう)と名付けられた。現在の建物は本館・流芳閣・栖鳳閣の3棟からなり、明治13年から昭和初期にかけての建築であるが、いずれもかなり老朽化が進んでいて、建築物の保全の難しさを感じさせる物件である。宿泊客室は流芳閣と栖鳳閣にあり、その多くが懸造りとなっているのが特徴的。 養老鉄道の養老駅からタクシーで5分ほど。元正天皇が行幸した菊水霊泉は千歳楼から徒歩10分ほど、養老の滝は30分ほどである。 なお、愛知県春日井市にある廃墟として有名な千歳楼(ちとせろう)とは別物である。
 
<千歳楼> <楽天トラベル> <国指定文化財 本館流芳閣栖鳳閣> <Wikipedia> <Google地図> <地理院地図>

本館2階より
 奥に見える黄色い壁が流芳閣。この写真では見えないが、流芳閣のさらに奥に栖鳳閣が建つ。中央が玄関屋根(車寄せ)であり、玄関と流芳閣の間にある瓦屋根がロビーや厨房である。ロビー・厨房の内部はかなり本格的に改修されている。
 本館の1階の玄関左側には2部屋があり、夕食朝食会場となっていた。 玄関正面の階段をあがった左側は大広間である。いずれも梁柱の変状が激しい。天井裏の木組は見えないが、梁の断面に対してスパンを長くとりすぎであろう。

流芳閣(りゅうほうかく)
 正面が竹の間で、卍崩しの勾欄がおしゃれである。右奥が楓の間。
「懸造り」は専ら寺社建築で見られるもので、傾斜地に立地する建屋で土地の高い側では通常の床下構造を持ち、低い側では柱梁構造で支持される高床となっているものである。傾斜地に張り出すように建てられた旅館はいくらもあるが、旅館建築の木造懸造りはここだけであろう。千歳楼の場合、傾斜地に立地するためにやむを得ず懸造りになったというわけではなく、眼下に濃尾平野を望む養老山地にあって、客室からのより開けた展望をねらったものであろう。
 ところが、この写真や前の写真からわかるように、現在では周囲に樹木が密生していて、流芳閣からの展望は全くないものと想像される。千歳楼は養老公園の中にあり、どこまでが千歳楼の敷地であるのかわからないが、できる限り周囲の樹木を整理して展望を確保してもらいたい。そうしなければ折角の懸造りが活かされない。また、建物と樹木や下草があまりに接近して陰湿な雰囲気になっており、建物の健全性の観点からも望ましくないと思われる。

栖鳳閣(せいほうかく)
 千歳楼下(西側)の不老ヶ池付近から見た栖鳳閣 松の間。ここは樹林帯がやや開けており、また流芳閣よりも懸が高く、松の間からはそれなりの展望が得られると思われる。左隣の袖の間からも樹間からわずかに濃尾平野の眺望があった。
 文化庁国指定文化財等データベースによれば、本館は明治13年の建築、流芳閣は大正期の建築、栖鳳閣は昭和初期の建築となっている。本館と栖鳳閣の間にはかなり距離があり、配置からしても明治の本館の隣に大正、その奥に昭和という並びが自然であるが、仲居さんに本館から部屋までを案内された時の説明では「ここからは昭和の建物になります」「この先は大正の建物でございます」という順番であった。千歳楼のHPでも栖鳳閣 松の間について「大正天皇が御通りになった部屋」と記載がある。

栖鳳閣 袖の間
 10畳の座敷に4畳の前室、そして合計8畳ほどの広縁がつく。また、部屋の西側(画像の右手前)には戦後の増築と思われるこの部屋専用の風呂トイレが付帯する。部屋正面の南東側には樹間に濃尾平野もわずかに望めるが、南西側の戸外は樹木に覆われている。屋根のメインテナンスがなされない期間が長くあったようで、特に南西側広縁天井が痛んでいる。
 座敷と広縁の間の万字崩しの欄間は特色のあるものであり、表裏2枚の桟の間に大変にあかるい照明を入れてある。これはもちろん蛍光管であるから戦後になって設置された欄間であろう。一方、座敷や広縁の天井の照明は照度が大変に低く抑えられている。そこで、夕暮れあとで蛍光管を消灯すれば、燭台による照明の感覚になり趣深い。個々の照明のスイッチは全て室外の廊下にあり、不便なようだが悪い感じはしない。
 広縁との間の鴨井は非常に大きく下がっていて、障子を動かすことは到底不可能と思えた。ところが驚いたことに夕食から帰ってみると座敷に布団が敷かれて障子が閉められていた。あの障子を日ごとに開け閉めするのは相当の手間であろう。翌朝、丁寧に障子を開いておいたが、それを見た従業員も「よくもまあ、この障子をあけられたものだなあ!」と感心したのではなかろうか。

昔元正天皇の御時。美濃國にまづしくいやしきおのこ有けり。老いたる父をもちたりけるを。此男山の木草をとりて。そのあたひを得て父を養けり。此父朝夕あながちに酒を愛しほしがりければ。なりひさごといふものをこしにつけて。酒うる家にのぞみて。常にこれを乞て父を養ふ。ある時山に入て薪をとらんとするに。苔ふかき石にすべりて。うつぶしにまろびたりけるに。酒の香のしければ。思はずにあやしくて。そのあたりを見るに。石の中より水ながれ出る所有。その色酒に似たりければ。くみてなむるにめでたき酒也。うれしく覺えて。その々ち日々にこれをくみて。飽くまで父を養ふ。時にみかどこの事を聞し召て。靈龜三年九月日其所へ行幸有て叡覽有けり。是則至孝の故に天神地祇あわれびをたれ。其德をあらはすと感ぜさせ給て。美濃守になされにけり。家ゆたかに成ていよ\/孝養の心ふか々りけり。その酒の出る所を養老の瀧と名づけられけり。これによりて同十一月に年號を養老と改められけるとぞ。
古今著聞集 上巻」(岩波文庫 黒板勝美/丸山二郎 校訂、1940)より。元正天皇の御時:在位期間は西暦715~724年。古今著聞集は1254年の成立と言われるから、元正天皇の事績からは500年以上あとの記録である。正史である続日本紀(797年)には、この地への行幸と改元について記載があるが、まづしくいやしきおのこの孝養譚に関する記述は見られない。朝夕あながちに酒を愛しほしがりければ:これは単なるアル中だろう。なりひさご:この伝承により、養老の瀧や養老駅周辺ではひょうたん細工を扱う土産物店が多い。靈龜三年九月, 同十一月:西暦717年。養老:日本で8番目の元号(ちなみに「令和」は北朝を含め248番目)。

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