對僊閣 鎌倉・長谷寺門前 2015年11月・2017年11月・2019年6月・11月訪問

 長谷寺の山門からすぐの参道南側に面して旅館對僊閣(たいせんかく)はある。当初からの旅館建築であり、現在の建物は関東大震災後に再建されたものである。本館である北棟の背後には中棟と南棟が平行に配置されており、敷地の奥行は意外に大きい(航空写真)。このうち宿泊客が使用するのは主に北棟2階の3部屋と南棟2階東側の1部屋である。その他の部屋は物置等として利用されていて、すぐに客室として使用することはできないと思われる。
 参道から北棟の広い玄関を入ると右手に2階への階段がある。北棟2階中央には東西方向の廊下があり、廊下の北側(参道側)には北東10畳、北西8畳の2部屋が並ぶ。廊下の南側の南東半分は広いベランダになっており、南西半分に10畳の1部屋がある。これら北棟2階の3部屋計28畳は通常2組以上の客に提供されることはないと思われるが、1人あたりの料金は南棟と同額である。小さな洗面所とトイレが階段の踊り場部分の中二階にある。トイレは朝顔和式便所である。広い洗面所や洋式トイレを使いたければ中棟1階に出向く必要がある。
 北棟1階の玄関正面の廊下を進むと、中棟への渡り廊下、そして南棟への渡り廊下とつながる。中棟1階の廊下東側には洗面所を兼ねた脱衣所と浴室がある。浴室は2人同時に使える広さがありシャワーも使える。洗面所は冷水と熱湯の蛇口が別々になっている。中棟1階の廊下西側には洋式トイレがある。
 南棟の2階には階段を挟んで東西に客室が配されているが、現在使用されるのは東側の7畳だけである。1階の2部屋も使用されていないから、南棟の宿泊客は1組のみとなる。2階の北側中央には洗面所とトイレがある。構造としては西側の部屋との共同利用であるが、前述のように西側の部屋は使用されないから事実上の専用設備である。
 宿泊の予約は電話によって行う。旅館は高齢の女将1人の経営であるから電話の応答を気長に待つことが多い。最近はお手伝いの女性が応対することもある。予約時に部屋の希望を言わなければ小人数では南棟の部屋が割り当てられるから、参道に面した北棟の2階を希望する場合にはその旨を指定する必要がある。これまで土曜日~日曜日に4回宿泊したが、いずれも他に宿泊客はなかった。
 お茶うけには力餅屋の和菓子がでる。菓子の種類は力餅とは限らない。食事は朝食のみで、いわゆる片泊まりとなる。朝食の畳鰯と自家製の漬物が名物である。江ノ電長谷駅と大仏を結ぶ通りと長谷寺参道との交差点周辺には夕食をとれるお店がいくつもある。交差点を渡って少し行ったところには古い商店を改装したレストラン「(ゆかり)」と「萬屋」があり、さらに少し行くとコンビニ(セブンイレブン鎌倉観音前店)もある。

<鎌倉市景観重要建築物> <旅籠宿に泊る> <鎌倉タイム> <Japan Travel> <Google地図> <地理院地図>

長谷寺参道と對僊閣北棟
 最近の鎌倉はどこでも混雑が激しいが長谷寺参道も例外ではない。對遷閣2階の高欄のある窓辺から通りを眺めていると、特に休日には午前中からお寺の閉門時刻まで途切れることのない人波で大混雑する。對遷閣の写真を撮ったり玄関のガラスから中を興味深げにのぞき込んだりする人も多い。周辺には高徳院の大仏をはじめ、御霊神社鎌倉文学館などの見所が多くある。對僊閣に宿泊し、早朝の混雑しない時間にこれらの見所を訪問するのもよい。大仏ならば朝飯前だ。

北棟2階の廊下
 手前左側のガラス戸の外はベランダになっている。北棟2階には3つの部屋があり、手前右の障子は北東側10畳、奥右の襖は北西側8畳、奥左の襖(スリッパあり)は南西側10畳。これら2階の3部屋計28畳を占有できるのだから、実にゆったりとした気分である。
 廊下正面の階段を下った突き当りが踊り場になっており、その左側にお手洗いがある。階段の踊り場からは1階の玄関を見渡せる。
 以下の写真は、いずれも北棟2階の様子である。

南西側10畳
 北棟に宿泊する際の居間となる部屋である。テレビもあり、朝食もここへ運ばれる。東・南・西に独立し、東側は広いベランダ、南向きの部屋であるから、對遷閣の中でも最も明るく開放的な部屋である。西側(床の間側)には窓はなく、長谷寺方面の展望は得られない。
 島崎藤村の夫人は毎年のように對遷閣を訪れ、この部屋に宿泊していたと伝えられる。なぜ夫人が単身で頻繁に宿泊していたのかはわからないが、藤村の没後、静子夫人は1973年に亡くなるまで大磯の旧島崎藤村邸に居住していたというから、そのころのことかもしれない。

北東側10畳
 對遷閣の表座敷となる部屋である。隣の北西側8畳とともに北側(写真左のガラス障子)の長谷寺参道に面している。北棟に宿泊する際には寝室として使われ、到着時から布団が敷かれている。気温差が激しい夜中にはしきりと家鳴りがしたり、障子1枚を隔てた廊下をあからさまになにかが徘徊しているような物音が聞こえることもある。絵草子などに琴三味線や杓子などの古道具が屋中を徘徊するさまが描かれている、あのような感じである。この部屋は北向きではあるが、南側(写真右の障子)も廊下をはさんで広いベランダに面しているから、昼間は南西側10畳と同様に明るく開放的である。
 この部屋では高浜虚子がしばしばホトトギスの会を開き、句会は毎回1週間ほども続いたともいわれる。高浜虚子は1910年から1959年までの約50年にわたり對遷閣から東へ800mほどの江ノ電線路わきに居住しつづけた。句集「五百句」「五百五拾句」「六百句」には、一句々々の作句場所として香風園、金亀楼などの鎌倉の往時の有名旅館をはじめ、對遷閣からほど近くにあった海浜ホテルもあげられているが、對遷閣の名前は見当たらない。ホトトギスの会は句会というより、おもに弟子を集めて論評・添削を行うものだったようである。

ベランダから
 南東向きで日当たりのよいベランダでは、北棟に宿泊客のいないときにはおばあさんが洗濯物を干していることがある。右側の高欄のあるガラス障子窓は南西側の10畳座敷。
 左奥は中棟。北棟に比べれば新しい建築に見えるが、中棟および南棟の1階部分は昭和2年の北棟竣工時の図面に記載があり、2階部分も昭和12年の図面には記載されているという。しかし、建て直されている可能性も大きいと思う。中棟の手前に見える平屋部分には浴室、洗面所、トイレなどがある。中棟本体の1階部分にも浴室があるが現在は使用されていない。
 写真には写っていないが、中棟のさらに背後には南棟がある。

 鎌倉の長谷寺門前にある「対僊閣」は、観光地にありながら、いかにも旅籠の趣のする宿で、明治時代のつくりのまま現在も営業を続けている。玄関の大時計は私の身長より大きなもので、電話室も昔のまま。鎌倉には観光旅館はいくらでもあるせいか、この宿はあまり繁盛しているようにはみえなかった。私が泊まったとき(六十一年六月)も、ほかに泊り客は一人もいなかった。感じの好い宿で私は気に入ったけれど、朝食のみで夕食がつかないのが惜しいと思った。
 このときは、初老のとても控えめなおかみさん(女中さんだったか?)に色紙を頼まれた。宿帳の私の名前を見て、すぐ色紙と筆ペンを買ってきたとかで、思いがけない所で私の名前を知っているものだと思った。私は人前ですらすら絵は描けないほうで、名前だけで勘弁して貰った。
つげ義春旅籠の思い出」より引用。1986年6月に妻子を伴って予約なしで對遷閣に宿泊したときの随想。この時の旅行については「貧困旅行記」の中の「鎌倉随歩」にも記されている。 対僊閣:對遷閣のこと。 明治時代のつくりのまま:旅館の創業は明治末だが、現在の本館(北棟)の竣工は昭和2年(1927)。 玄関の大時計はそれなりにあっているのだが、夜中に限ってとんちんかんな時報を打つことがあり、2階にいてもよく聞こえる。単に時報の時刻がずれてわけではなく、ランダムな回数を打ち出すのが妙。 初老のとても控えめなおかみさん:1972年から3代目女将の鈴木サヱ子さん。2019年8月時点で88歳(毎日新聞記事による)。いつまでもの御健勝を願うことは勿論であるが限度はあろう。実際のところ、2015年には颯爽と朝食を2階へ配膳する姿に驚いたものだが、2019年にはかなりハラハラした。御無理をなさらず、しかしこの素晴らしい宿が末永く存続することを願う。御子息は関西で学校の先生をしておられるようだ。 私は人前ですらすら絵は描けないほうで:つげ義春の本業は漫画家。温泉旅館などの味のあるペン画も多く描いている。
日本の佳宿