瑞泉寺の石垣は、通常の城郭などに見られるものとは異なり、
石垣の内外で高低差はほとんどない。つまり、石垣は傾斜地や盛り土に設けられたものではなく、寺域の内外を遮断するために設けられた巨大な防御壁なのであり、欧州や中国大陸における城壁都市を思わせるもので、日本にあっては異様といえる。
瑞泉寺は越中一向一揆の中核となった寺院であり、上杉謙信をはじめとする数々の戦国大名と対峙して百年余りも越中で広範囲の自治を保ったが、次第に縮退を余儀なくされ、最期には 織田信長 配下の武将 佐々成政 の猛攻を受け、瑞泉寺は井波の寺内町もろとも灰燼に帰した。本能寺の変(1582年)のわずか1年前のことである。
東山荘の石垣に面した2階には、写真の奥側から「藤波」と「朝霧」の2室の客室が並ぶ。ネット予約では部屋は指定できないから、石垣に面した部屋を指定して予約するためには電話連絡を要する。玄関から手前(土蔵側)は1・2階とも経営者の居住スペースとなっているようである。
東山荘の客室名は大伴家持(718年頃~785年)の和歌に由来している。家持は越中守として5年間にわたり富山県高岡市
伏木古国府に在住し、多くの和歌を詠んだ。各部屋にはそれぞれの歌を墨書きした木札が掲出されており、「
藤波」の場合、家持が天平勝宝2年4月12日(西暦750年5月25日)に氷見市布施付近にあった湖に遊覧した際の歌によっている。
『藤波の 影なす海の 底清み 沈著く石をも 珠とぞあが見る』
客室「藤波」は前述ように高い石垣に直面しており、窓からの展望はよいとは言えない。瑞泉寺の山門は
一層目の屋根から上のみ見えている。
この写真の右側に見える襖の向こうには
半畳幅の廊下があって、その廊下の向側は客室「
朝霧」である。
夕食や
朝食は「朝霧」に用意していただいた。
夕食の間に「藤波」にお布団を敷いていただける。
松が描かれた屏風の手前は、本来は本館2階の「藤波」「朝霧」「葦付」「鮎児」の4室にアクセスするための「廊下」の一部であったと思われるのだが、現在では「藤波」と向かい合う「葦付」側は屏風で閉鎖され、「朝霧」「鮎児」側との間にも内鍵のある
襖がたてられているから、この
4畳分は「藤波」の宿泊客の占有スペースとなっている。座敷の8畳を合わせて合計12畳である。楽天トラベルでは8畳間と10畳間の選択肢だけで、12畳の「藤波」を指定することはできないが、私の場合、ネットで10畳間を予約してから東山荘に電話で相談し、当日に部屋代の差額(税込み1人\1,100)を支払うということで「藤波」を確保していただけた。
廊下との間の欄間は見事な井波彫刻の「
菊」である。この部屋の名称は以前は「
㐧三号 菊の間」だったらしい。
作家の池波正太郎は1981年頃に東山荘に宿泊して「翌朝、小道をへだてた瑞泉寺の鐘の音で目ざめる。小雨がけむっていた。」と記している。
八日町通りに石畳が敷かれたのは1986年であるから、池波正太郎はアスファルトあるいは未舗装の道を見ていただろう。
玄関前の石垣の脇には
水場があって、豊富な清水が流れている。