東山荘 富山県南砺市井波・瑞泉寺門前 2023年9月訪問

 あるとき、柄にもなく新幹線のグリーン車を利用した。そこで目にしたJR東海の車内誌「ひととき」に木彫の町 富山県南砺市井波が特集されているのを目にして、その4か月後には瑞泉寺の寺内町 井波を訪れていた。東山荘は越中一向一揆の中核となった瑞泉寺の壮大な山門の真正面に位置する旅館であるが、山門との間には鉄壁の石垣が立ちはだかる。国を平定しようとする戦国大名と自治を死守しようとする一向宗徒の壮絶な戦いを感じることができる。
<東山荘> <楽天トラベル> <旅籠宿に泊る> <TAMAISM> <Google地図> <地理院地図>

瑞泉寺の石垣と向かい合う東山荘
 瑞泉寺の石垣は、通常の城郭などに見られるものとは異なり、石垣の内外で高低差はほとんどない。つまり、石垣は傾斜地や盛り土に設けられたものではなく、寺域の内外を遮断するために設けられた巨大な防御壁なのであり、欧州や中国大陸における城壁都市を思わせるもので、日本にあっては異様といえる。
 瑞泉寺は越中一向一揆の中核となった寺院であり、上杉謙信をはじめとする数々の戦国大名と対峙して百年余りも越中で広範囲の自治を保ったが、次第に縮退を余儀なくされ、最期には 織田信長 配下の武将 佐々成政 の猛攻を受け、瑞泉寺は井波の寺内町もろとも灰燼に帰した。本能寺の変(1582年)のわずか1年前のことである。
 東山荘の石垣に面した2階には、写真の奥側から「藤波」と「朝霧」の2室の客室が並ぶ。ネット予約では部屋は指定できないから、石垣に面した部屋を指定して予約するためには電話連絡を要する。玄関から手前(土蔵側)は1・2階とも経営者の居住スペースとなっているようである。

客室「藤波」
 東山荘の客室名は大伴家持(718年頃~785年)の和歌に由来している。家持は越中守として5年間にわたり富山県高岡市伏木古国府に在住し、多くの和歌を詠んだ。各部屋にはそれぞれの歌を墨書きした木札が掲出されており、「藤波」の場合、家持が天平勝宝2年4月12日(西暦750年5月25日)に氷見市布施付近にあった湖に遊覧した際の歌によっている。 『藤波の 影なす海の 底清み 沈著く石をも 珠とぞあが見る』
 客室「藤波」は前述ように高い石垣に直面しており、窓からの展望はよいとは言えない。瑞泉寺の山門は一層目の屋根から上のみ見えている。
 この写真の右側に見える襖の向こうには半畳幅の廊下があって、その廊下の向側は客室「朝霧」である。夕食朝食は「朝霧」に用意していただいた。 夕食の間に「藤波」にお布団を敷いていただける。

客室「藤波」廊下側
 松が描かれた屏風の手前は、本来は本館2階の「藤波」「朝霧」「葦付」「鮎児」の4室にアクセスするための「廊下」の一部であったと思われるのだが、現在では「藤波」と向かい合う「葦付」側は屏風で閉鎖され、「朝霧」「鮎児」側との間にも内鍵のあるがたてられているから、この4畳分は「藤波」の宿泊客の占有スペースとなっている。座敷の8畳を合わせて合計12畳である。楽天トラベルでは8畳間と10畳間の選択肢だけで、12畳の「藤波」を指定することはできないが、私の場合、ネットで10畳間を予約してから東山荘に電話で相談し、当日に部屋代の差額(税込み1人\1,100)を支払うということで「藤波」を確保していただけた。
 廊下との間の欄間は見事な井波彫刻の「」である。この部屋の名称は以前は「㐧三号 菊の間」だったらしい。

窓から顔を出していると…
 作家の池波正太郎は1981年頃に東山荘に宿泊して「翌朝、小道をへだてた瑞泉寺の鐘の音で目ざめる。小雨がけむっていた。」と記している。 八日町通りに石畳が敷かれたのは1986年であるから、池波正太郎はアスファルトあるいは未舗装の道を見ていただろう。
 玄関前の石垣の脇には水場があって、豊富な清水が流れている。

この日の夜は、本通りの突当りにある瑞泉寺の横手の〔東山荘〕という宿へ泊った。小ぢんまりとした清潔な宿で、のびのびと眠ることができた。翌朝、小道をへだてた瑞泉寺の鐘の音で目ざめる。小雨がけむっていた。窓から顔を出していると、通りかかった小学生の男の子と目が合う。すると、その子は帽子をとって挨拶をするではないか。見も知らぬ旅人の私にである。
池波正太郎越中・井波―わが先祖の地」(私が生まれた日―池波正太郎自選随筆集<1>, 朝日文芸文庫、初出:「小説現代」1981年9月号)
八日町通りから一歩入った「池波正太郎ふれあい館」にペン字の原稿が展示されている。東山荘には昭和56年(1981年)10月25日付の池波正太郎の書付が残っているようだが、それはこの随筆の出版後である。本通り:八日町通りのこと。のびのびと眠ることができた:客室「藤波」に宿泊したと伝えられる。瑞泉寺の鐘の音:毎朝6時に落ち着いた音色の梵鐘が撞かれる。東山荘では目覚まし時計などという無粋なものは不要だ。
八乙女山を背景にして、巨大な屋根がぐいと迫ってくる。これが瑞泉寺の本堂だ。評判通り、その伽藍はすばらしいものだった。近づくと、寺の周囲には堅固な石垣が張りめぐらせてあった。寺というより城にやってきたのではないか、という感じである。 この石垣自体はたぶん、中世のものではないのだろう。一説によれば、火事などの防災の目的でつくられたようだ。ただし、この石垣を見ていると、かつて越中の一向一揆の牙城だったころの瑞泉寺の面影がくっきりと浮かんでくる。中世の寺内町だった井波をしのばせる堂々たる石垣だ。
五木寛之瑞泉寺」(「百寺巡礼」第二巻 北陸、講談社文庫, 2008)
瑞泉寺は現存する北陸最大の木造建築物で、その伽藍は木造寺院としては全国屈指の規模を誇っているが、瑞泉寺と門前のまちは幾度となく井波風と呼ばれる強風が原因で大火となり焼失している。そのため防火対策として、寺の正面には大楼壁と呼ばれる高さ約6.2mもある石垣が築かれ、さらには参道である八日町通りの正面からあえて山門や本堂を少しずらして配置するなど、風の通りを抑える工夫もされており、これらは宝暦12年(1762)の大火後の瑞泉寺再建にあわせてなされたものである。そして、井波彫刻もこの時の瑞泉寺再建をきっかけに産声をあげる。
日本遺産ポータルサイト宮大工の鑿一丁から生まれた木彫刻美術館・井波
日本の佳宿