私は温泉にはあまり興味がなく、それほど経験もなく、また知識も乏しいのであるが、このちょうどよいサイズのお風呂には大変に愛着を感じている。湯船の底は石の間がコンクリートで固められている。その所々に小さな孔があり、そこから湯が気泡とともに湧き出している。真にそこが源泉なのかわからないが、たぶんそうであろう。無色透明で、さっぱりとした
お湯である。開放的な景観も素晴らしく、湯につかっていると
狩野川の流れと一体になっているように感じられる。
この湯は昔は「磧の湯」と称され、湯本館ロビーに掲出してある
写真や古い絵葉書の
写真を見ると、現在地よりも少し上流の川中にある大きな岩の窪みを湯船として、その湯船よりもだいぶ高い位置から掛樋で湯滝を落としていたことがわかる。おそらく、この湯船は昭和33年(1958)の狩野川台風の際に埋没し、河床高さが源泉位置とほとんど同一レベルに上昇したのであろう。そのうち、また河床が一気に浸食されて磧の湯が出現するようなことがあるかもしれない。
中央の少し引っ込んでいる部分が
本館。大正7年(1918)に川端康成が訪れた当時からの建物である。玄関は反対側の山側にあり、傾斜のため本館1階・2階は川側では2階・3階に相当する高さになっている。2階には南(奥側)から「やまざくら」「もみじ」の2室、1階には「鮎」「やまめ」の2室(なぜか鮎だけ漢字)、これら本館の4客室はいずれも8畳間である。1階ロビーから増築の婦人浴室屋上にある
ベランダに出て
階段で庭へ降り、さらに川へ下ると露天風呂がある。
本館の奥にある白い壁の建物は
新館(南)。共同湯(
河鹿の湯)に隣接する。磧の湯とともに写っている写真があることから昭和33年以前の建築と思われる。「せきれい」など数室があるが詳細はわからない。湯本館を訪れる際に道の正面に最初に現れるのは
この建物でありギョッとさせられる。3階部分(川側から見ると4階)には望楼のような造りの部屋があるが、そこへ登る内部の
階段は封鎖されている。
手前の建物は
新館(北)。1階は殿方浴室で、2階に「
早蕨」「紅梅」の2室がある。「早蕨」は10畳間で
小さな浴室もついているが、2021年に訪れた時には
食事処となっていた。以前は
夕食、
朝食ともに部屋出しであった。
画面左下の屋根が
玄関である。玄関前は、傾斜地に面しているうえに正面に宴会場や、その1階の駐車棟が立て込んでいて非常に窮屈な空間となっている。玄関屋根の上の戸袋には鯉の滝登りの鏝絵がある。
2階手前の東北角が川端康成が長期滞在した
4畳半の部屋。「大正十三年(一九二四年)に大学を出てからの三四年は、湯本館での滞在が、半年あるひは一年以上に長びいた」というから、旅館というより下宿である。
本館の2階には、西側(川側)に一号室(現やまざくら)、二号室(現もみじ)の2客室、廊下を挟んで東側(山側)に三号、四号、五号の3客室があったが、「やまざくら」と「もみじ」のトイレや踏込の増設により
廊下が東に移動したため、狭小になった三号は現在使用されていない。五号は上記の4畳半のことで、やはり狭小化した
四号(玄関屋根左の明かりがついている部分)とともに資料展示室となっている。一号と二号が本館のメイン客室で、川端康成も他に客がないときには専らこの2室を利用していたようである。
酒豪で知られた若山牧水がたびたび宿泊した部屋である。大正11年(1922)3月28日~4月20日の滞在中には「山ざくら」と題する二十三首を詠んでいる。
「三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ、附近の溪より山に山櫻甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此處にまとめつ」「うすべにに葉はいちはやく萠えいでて咲かむとすなり山櫻花」(山櫻の歌, 1923)。
川端康成は牧水について回想して「酒仙と呼ばれ、酒のために命を縮めた氏のことだから、宿に着けば、もちろん酒盛があった。面白いのは、盃を手にする前に白紙で簡単な御幣を折って、それを銚子に突き立てて
床の間に飾る習わしだったようだ。私は廊下を通りながらその御幣を覗き見して、牧水氏の酒仙らしい面影を感じたものだ」(若山牧水氏と湯ヶ島温泉, 1928)と書いている。現在では座敷と廊下との間に
踏込と
トイレが設けられ板戸が立てられているが、当時は「一号室と二号室との境も襖、廊下との隔ても紙障子」(伊豆の思い出, 1949)であったから、酒宴の様子をしばしば目にしたのだろう。「宿の女中達までが廊下に集まって来るという風だった」(1928)という。
広縁との間にある
欄間は「伊豆の踊子」単行本の装幀の紋様にも使われたもので、もとは隣の「
もみじ」(二号室)との間の欄間であった。2部屋を壁で分離したときに移設したのであろう。
川端康成が「伊豆の踊子」の中で「それから、湯ヶ島の二日目の夜、宿屋へ流して來た。踊子が玄關の板敷で踊るのを、私は梯子段の中途に腰を下ろして一心に見てゐた」と書いている、その
玄関の板敷である。画面左の壁には、川端康成が晩年に、そのときの様子を再現してみせた
写真が展示してある。それによると、川端は
階段の下から8段目に足を置き、10段目に腰かけている。随分と高い位置から踊子を「一心に見てゐた」ようだ。湯本館の客が流しの旅芸人を呼込んだところを、19歳の川端もご相伴にあずかり、勧進元の邪魔にならない高いところから眺めたのであろう。翌朝、川端は旅芸人の一行を追って天城峠へ上って行く。
板敷の奥の突き当りの扉が1階客室「やまめ」の入り口。その右側は
ロビーである。
湯本館から北東方向へ150mほど、
公会堂付近から望む西平(にしびら)の集落。山の手前、集落の向こうに左から右へ狩野川が流れており、湯本館からは100mほど下流である。家々の屋根を茅葺に変えれば苑として牧水や康成が散歩していたころの様子がよみがえるかに思われる。時代は少し下るが、井上靖の「しろばんば」をも彷彿させる風景である。