湯本館 伊豆・湯ヶ島温泉 2008年4月・2016年5月・2021年3月訪問

 伊豆箱根鉄道の修善寺駅から河津行きの東海バスで湯ヶ島温泉口バス停まで30分ほどで到着できる。そこから狩野川へ下って、湯本館までは徒歩10分ほど。「湯道」と呼ばれる狩野川沿いの遊歩道が近道だ。バス停としては持越温泉行きの湯端バス停あるいは西平橋バス停のほうが近いが、バスの本数はかなり少ない。浄蓮の滝へは湯ヶ島温泉口バス停から河津方面へ5分ほどの乗車であるから気軽に訪れることができる。旧天城山隧道へ行くには自家用車かタクシーが必要だ。
<湯本館> <楽天トラベル> <日本秘湯を守る会> <Google地図> <地理院地図>

露天風呂
 私は温泉にはあまり興味がなく、それほど経験もなく、また知識も乏しいのであるが、このちょうどよいサイズのお風呂には大変に愛着を感じている。湯船の底は石の間がコンクリートで固められている。その所々に小さな孔があり、そこから湯が気泡とともに湧き出している。真にそこが源泉なのかわからないが、たぶんそうであろう。無色透明で、さっぱりとしたお湯である。開放的な景観も素晴らしく、湯につかっていると狩野川の流れと一体になっているように感じられる。
 この湯は昔は「磧の湯」と称され、湯本館ロビーに掲出してある写真や古い絵葉書の写真を見ると、現在地よりも少し上流の川中にある大きな岩の窪みを湯船として、その湯船よりもだいぶ高い位置から掛樋で湯滝を落としていたことがわかる。おそらく、この湯船は昭和33年(1958)の狩野川台風の際に埋没し、河床高さが源泉位置とほとんど同一レベルに上昇したのであろう。そのうち、また河床が一気に浸食されて磧の湯が出現するようなことがあるかもしれない。

湯本館全景(西面・川側)
 中央の少し引っ込んでいる部分が本館。大正7年(1918)に川端康成が訪れた当時からの建物である。玄関は反対側の山側にあり、傾斜のため本館1階・2階は川側では2階・3階に相当する高さになっている。2階には南(奥側)から「やまざくら」「もみじ」の2室、1階には「鮎」「やまめ」の2室(なぜか鮎だけ漢字)、これら本館の4客室はいずれも8畳間である。1階ロビーから増築の婦人浴室屋上にあるベランダに出て階段で庭へ降り、さらに川へ下ると露天風呂がある。
 本館の奥にある白い壁の建物は新館(南)。共同湯(河鹿の湯)に隣接する。磧の湯とともに写っている写真があることから昭和33年以前の建築と思われる。「せきれい」など数室があるが詳細はわからない。湯本館を訪れる際に道の正面に最初に現れるのはこの建物でありギョッとさせられる。3階部分(川側から見ると4階)には望楼のような造りの部屋があるが、そこへ登る内部の階段は封鎖されている。
 手前の建物は新館(北)。1階は殿方浴室で、2階に「早蕨」「紅梅」の2室がある。「早蕨」は10畳間で小さな浴室もついているが、2021年に訪れた時には食事処となっていた。以前は夕食朝食ともに部屋出しであった。

本館東面(山側)
 画面左下の屋根が玄関である。玄関前は、傾斜地に面しているうえに正面に宴会場や、その1階の駐車棟が立て込んでいて非常に窮屈な空間となっている。玄関屋根の上の戸袋には鯉の滝登りの鏝絵がある。
 2階手前の東北角が川端康成が長期滞在した4畳半の部屋。「大正十三年(一九二四年)に大学を出てからの三四年は、湯本館での滞在が、半年あるひは一年以上に長びいた」というから、旅館というより下宿である。
 本館の2階には、西側(川側)に一号室(現やまざくら)、二号室(現もみじ)の2客室、廊下を挟んで東側(山側)に三号、四号、五号の3客室があったが、「やまざくら」と「もみじ」のトイレや踏込の増設により廊下が東に移動したため、狭小になった三号は現在使用されていない。五号は上記の4畳半のことで、やはり狭小化した四号(玄関屋根左の明かりがついている部分)とともに資料展示室となっている。一号と二号が本館のメイン客室で、川端康成も他に客がないときには専らこの2室を利用していたようである。

本館「やまざくら」(一号室)
 酒豪で知られた若山牧水がたびたび宿泊した部屋である。大正11年(1922)3月28日~4月20日の滞在中には「山ざくら」と題する二十三首を詠んでいる。 「三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ、附近の溪より山に山櫻甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此處にまとめつ」「うすべにに葉はいちはやく萠えいでて咲かむとすなり山櫻花」(山櫻の歌, 1923)。
 川端康成は牧水について回想して「酒仙と呼ばれ、酒のために命を縮めた氏のことだから、宿に着けば、もちろん酒盛があった。面白いのは、盃を手にする前に白紙で簡単な御幣を折って、それを銚子に突き立てて床の間に飾る習わしだったようだ。私は廊下を通りながらその御幣を覗き見して、牧水氏の酒仙らしい面影を感じたものだ」(若山牧水氏と湯ヶ島温泉, 1928)と書いている。現在では座敷と廊下との間に踏込トイレが設けられ板戸が立てられているが、当時は「一号室と二号室との境も襖、廊下との隔ても紙障子」(伊豆の思い出, 1949)であったから、酒宴の様子をしばしば目にしたのだろう。「宿の女中達までが廊下に集まって来るという風だった」(1928)という。
 広縁との間にある欄間は「伊豆の踊子」単行本の装幀の紋様にも使われたもので、もとは隣の「もみじ」(二号室)との間の欄間であった。2部屋を壁で分離したときに移設したのであろう。

本館玄関の板敷
 川端康成が「伊豆の踊子」の中で「それから、湯ヶ島の二日目の夜、宿屋へ流して來た。踊子が玄關の板敷で踊るのを、私は梯子段の中途に腰を下ろして一心に見てゐた」と書いている、その玄関の板敷である。画面左の壁には、川端康成が晩年に、そのときの様子を再現してみせた写真が展示してある。それによると、川端は階段の下から8段目に足を置き、10段目に腰かけている。随分と高い位置から踊子を「一心に見てゐた」ようだ。湯本館の客が流しの旅芸人を呼込んだところを、19歳の川端もご相伴にあずかり、勧進元の邪魔にならない高いところから眺めたのであろう。翌朝、川端は旅芸人の一行を追って天城峠へ上って行く。
 板敷の奥の突き当りの扉が1階客室「やまめ」の入り口。その右側はロビーである。

西平風景
 湯本館から北東方向へ150mほど公会堂付近から望む西平(にしびら)の集落。山の手前、集落の向こうに左から右へ狩野川が流れており、湯本館からは100mほど下流である。家々の屋根を茅葺に変えれば苑として牧水や康成が散歩していたころの様子がよみがえるかに思われる。時代は少し下るが、井上靖の「しろばんば」をも彷彿させる風景である。

 三月廿八日、午前五時ころ、伊豆湯ケ島温泉湯本館の湯槽(ゆぶね)にわたしはひとりして浸つてゐた。温まるにつれて、昨夜少し過した酒の醉がまたほのかに身體に出て來るのを覺えた。(中略) 宿醉(ふつかよひ)はいよ/\出て來た。霧を見るのをやめ、眼を瞑ぢてをると、だう/\と流れ下つてゐる瀬の音が、何となく自身の身體の中にでも起つてゐる樣に思ひなされて來た。
若山牧水湯槽の朝」(青空文庫)改行略。

 「伊豆の踊子」は大正十一年(一九二二年)、私が二十二歳の七月、伊豆湯ヶ島温泉の湯本館で書いた、「湯ヶ島での思ひ出」といふ百七枚の草稿から、踊子の思ひ出の部分だけを、大正十五年(一九二六年)、二十六歳の時に書き直したものである。「湯ヶ島での思ひ出」に、「私は二十歳(數へ年)だった。高等學校の二年に進んだばかりの秋半ばで、上京してから初めての旅らしい旅だった。」と書いてゐる。「伊豆の踊子」の旅は大正七年(一九一八年)の秋のことであった。(中略)それから昭和二年(一九二七年)まで十年の間、私は湯ヶ島にいかない年はなく、大正十三年(一九二四年)に大学を出てからの三四年は、湯本館での滞在が、半年あるひは一年以上に長びいた。(中略)五十歳を過ぎた私はもう日本國内のどこに旅をしても、二十代の私が湯ヶ島に行った時のやうな新鮮なよろこびは感じられない。
川端康成伊豆の踊子・温泉宿」(岩波文庫、昭和27年あとがきより。改行略。

日本の佳宿