伊豆急線
河津駅からバスで15分ほど、反対方向の伊豆箱根鉄道修善寺駅からのバスだと湯ヶ島・天城峠経由で約1時間、下田街道沿いの
湯ヶ野バス停で下車。谷へ下って徒歩4~5分である。河津川にかかる
旅館前の橋は人道橋で、旅館側には車道はないので、旅館で必要な物資はすべて人力で運び込んでいるものと思われる。
中央が本館、左奥の屋根だけ見えるのが新館。本館はコの字をなしていて、中央の引っ込んだ部分に
玄関、玄関
右側の橋の突き当り部分は、1階が資料室、2階が客室の「踊子1」となっている。また、玄関
左側(新館手前)には1階に
榧風呂など、2階に客室「踊子7」と「思い出」(白い壁の部分)がある。本館裏手には新しい
岩風呂・露天風呂もある。
川端が悶々としたり妄想に悩まされたりした部屋
とされるが、川端は大正15年に再訪して「湯ケ野の福田屋は立派に改築されて八年前の面影を止めず。襖を切抜き敷居より電燈を下げて二室兼用とせし頃の藁屋根なぞ昔の夢なり」(南伊豆行, 1926)と書いており、当時の部屋がどの程度に保たれているのか、あるいは全く別物であるのか、よくわからない。現在は川側6畳と山側8畳の二間つづきになっており、8畳は
寝室として使われる。もちろん、襖の切抜きはない。さらに山側には
トイレが付属する。
2階の部屋だが、正面にある
橋の床盤位置が高いために、縁側や座敷に座っていると、橋を渡って来る人々とちょうど目線があってしまう。そのためか、晩年の川端はここではなく下流側にある客室「思い出」を好んで宿泊したようだ。
この部屋の階下は
文学資料室となっていてるのだが、その1階部分は
基礎や柱などの構造部材を含めて建物が新築されている。2階を仮受けしながら1階部分を少しずつ改築したのか、あるいは2階も含めて全部を解体し、1階を新築した後にもとの部材を組み直して2階を復元したのであろうか。いずれにしても、このような事例は珍しいと思う。
玄関やロビーの
2階部分にある6畳間。「踊子1」入り口の脇にあたる。現在は客室としては使われていない。
太宰治は昭和15年(1940)7月3日から13日にかけてこの部屋に滞在し「東京八景」をはじめから終わりまで書き上げた。ただし、福田屋で書いたのは始めの部分だけという説もある。7月12日朝には美智子夫人を呼び寄せるための電報を打ち、夫人の到着を待つ間に「貪婪禍」を書いて京都帝國大學新聞に寄稿している。当時、となりの布団部屋との間の襖には「樹に鶯、めん鶏とひよこ」が描かれていたとされるが、現在は、襖ではなく、俳句のようなものが書かれた紙を何枚か張り付けた
ボードがはめ込まれている。
いずれにしても、昭和15年7月12日夕から13日朝にかけて太宰夫妻がこの部屋に滞在したことは確かであり、また、その後に大規模な改築はされていないはずであり、感慨深い。
ちなみに、13日には太宰夫妻は近くの谷津温泉に移動し、そこで井伏鱒二、亀井勝一郎と同宿していたところを鉄砲水に襲われ、九死に一生を得ている。