福田屋 伊豆・湯ヶ野温泉 2021年3月訪問

 川端康成「伊豆の踊子」の主要な舞台として有名な宿である。「すべて書いた通りであった。事実そのままで虚構はない」とか「私の作品としては珍づらしく、事實を追っている」と著者は述べているが、はたしてどうだろうか。
 大正7年(1918)秋、19歳の川端は伊豆の旅に出た。湯ヶ島温泉湯本館の玄関14歳の踊子にすっかりあてられた川端は、翌朝、ふらふらと湯本館を出て旅芸人の一座を追い、天城峠を越えて湯ヶ野温泉の福田屋に宿泊する。その晩、流しの一座は川向の温泉宿(江戸屋または湯本楼であろう)に揚げられ、川端はこちら岸の福田屋で件のぎょろ目を凝らし踊子の今夜が汚れるのであらうか」と、夜中の2時過ぎまで悶々とする。ここまではかなりリアリティのある話だ。ところが翌朝、江戸屋と湯本楼の間にある共同湯から「手拭もない眞裸」の踊子が河原に走り出て手を振るのを見て「白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ」などと書いているが、そんなはずはあるまい。清水どころか、一晩中、煩悩の炎が燃えさかった末の幻妄であろう。
<福田屋> <楽天トラベル> <日本秘湯を守る会> <Google地図> <地理院地図>

福田屋全景
 伊豆急線河津駅からバスで15分ほど、反対方向の伊豆箱根鉄道修善寺駅からのバスだと湯ヶ島・天城峠経由で約1時間、下田街道沿いの湯ヶ野バス停で下車。谷へ下って徒歩4~5分である。河津川にかかる旅館前の橋は人道橋で、旅館側には車道はないので、旅館で必要な物資はすべて人力で運び込んでいるものと思われる。
 中央が本館、左奥の屋根だけ見えるのが新館。本館はコの字をなしていて、中央の引っ込んだ部分に玄関、玄関右側の橋の突き当り部分は、1階が資料室、2階が客室の「踊子1」となっている。また、玄関左側(新館手前)には1階に榧風呂など、2階に客室「踊子7」と「思い出」(白い壁の部分)がある。本館裏手には新しい岩風呂・露天風呂もある。

客室「踊子1」
 川端が悶々としたり妄想に悩まされたりした部屋とされるが、川端は大正15年に再訪して「湯ケ野の福田屋は立派に改築されて八年前の面影を止めず。襖を切抜き敷居より電燈を下げて二室兼用とせし頃の藁屋根なぞ昔の夢なり」(南伊豆行, 1926)と書いており、当時の部屋がどの程度に保たれているのか、あるいは全く別物であるのか、よくわからない。現在は川側6畳と山側8畳の二間つづきになっており、8畳は寝室として使われる。もちろん、襖の切抜きはない。さらに山側にはトイレが付属する
 2階の部屋だが、正面にあるの床盤位置が高いために、縁側や座敷に座っていると、橋を渡って来る人々とちょうど目線があってしまう。そのためか、晩年の川端はここではなく下流側にある客室「思い出」を好んで宿泊したようだ。
 この部屋の階下は文学資料室となっていてるのだが、その1階部分は基礎や柱などの構造部材を含めて建物が新築されている。2階を仮受けしながら1階部分を少しずつ改築したのか、あるいは2階も含めて全部を解体し、1階を新築した後にもとの部材を組み直して2階を復元したのであろうか。いずれにしても、このような事例は珍しいと思う。

太宰治ゆかりの部屋
 玄関やロビー2階部分にある6畳間。「踊子1」入り口の脇にあたる。現在は客室としては使われていない。
 太宰治は昭和15年(1940)7月3日から13日にかけてこの部屋に滞在し「東京八景」をはじめから終わりまで書き上げた。ただし、福田屋で書いたのは始めの部分だけという説もある。7月12日朝には美智子夫人を呼び寄せるための電報を打ち、夫人の到着を待つ間に「貪婪禍」を書いて京都帝國大學新聞に寄稿している。当時、となりの布団部屋との間の襖には「樹に鶯、めん鶏とひよこ」が描かれていたとされるが、現在は、襖ではなく、俳句のようなものが書かれた紙を何枚か張り付けたボードがはめ込まれている。
 いずれにしても、昭和15年7月12日夕から13日朝にかけて太宰夫妻がこの部屋に滞在したことは確かであり、また、その後に大規模な改築はされていないはずであり、感慨深い。
 ちなみに、13日には太宰夫妻は近くの谷津温泉に移動し、そこで井伏鱒二、亀井勝一郎と同宿していたところを鉄砲水に襲われ、九死に一生を得ている。

伊東から下田行のバスに乘り、伊豆半島の東海岸に沿うて三時間、バスにゆられて南下し、その戸数三十の見る影も無い山村に降り立った。ここなら、一泊三圓を越えることは無からうと思った。憂鬱堪へがたいばかりの粗末な、小さい宿屋が四軒だけ竝んでいる。私は、Fといふ宿屋を選んだ。四軒の中では、まだしも、少しましなところが、あるやうに思われたからである。意地の悪さうな、下品な女中に案内されて二階に上り、部屋に通されて見ると、私は、いい年をして、泣きさうな氣がした。三年まへに、私が借りてゐた荻窪の下宿屋の一室を思ひ出した。その下宿屋は、荻窪でも、最下等の代物であったのである。けれども、この蒲團部屋の隣りの六畳間は、その下宿の部屋よりも、もつと安つぽく、侘しいのである。
太宰治東京八景」(岩波文庫「富嶽百景 走れメロス 他八編, 1957」)より。「東京八景」執筆の舞台としては、ぜひとも「憂鬱堪へがたいばかりの」状況設定が必要であったのだろう、福田屋をひどく悪く描いている。それを真に受けたためか、福田屋では川端康成を前面に出してアピールしているのに対して、太宰治についてはあまり宣伝していない。「東京八景」では、太宰は宿賃九十円(これも誇張であろう)を前払いしたことになっているが、実際には乱費を心配しての後払いだったらしい。しかも現金はチェックアウトの際に夫人を呼び寄せて届けさせるという念の入れようである。勿論、現地で宿屋を選んだのではなく、支払条件も用心深く手配してから出かけたのであろう。既に「伊豆の踊子」で有名となっている宿に逗留するのが相当に気恥ずかしかったのに違いない。

ここへ來て、もう十日に近い。仕事も一段落ついた。けふあたり家の者がお金を持つて、この宿へ私を迎へに來る筈である。家の者にはこんな温泉宿でも、極樂であるかも知れぬ。私は、素知らぬ振りして家の者にこの土地の感想を聞いてみたいと思つてゐる。とても、いいところですと、興奮して言ふかも知れない。
太宰治貪婪禍」(青空文庫)より。

「東京八景」を書きます時は、異常ないきごみでしたから、よく憶えています。昭和十五年の七月三日、太宰は、東京地図を携えて、伊豆の湯ケ野へ出かけ、十日ほど仕事に打ち込む。十日過ぎに電報を打つから、お金を持って迎えにこいということで、結婚後、こうしたことは、初めてで、何か他の場合と違うものを感じさせられました。十二日に電報が着きまして、すぐ私は出発いたしました。伊東から、下田行きのバスに乗換えて、三時間もかかり、随分遠いので、心細うございました。川を渡って、左側の福田屋という宿に着いたのは、もうたそがれ頃でございます。この宿の様子は「貪婪移」という随筆にも書いております。全く見どころのない土地で、窓外は低い夏山、それも中腹までは野菜畑、うす汚い室で太宰は迎えてくれました。そのとき、その室の襖の絵、樹に鶯、めん鶏とひよこといった月並みなものでしたが、その鶯が、一枝に鈴なり式に描いてあるのが面白いから数えて御覧などと冗談を申しておりましたが、仕事については、一言も申しませんでした。
井伏鱒二「太宰治」(中公文庫)から転載。底本は「太宰治集上」(新潮社 1949)の井伏鱒二による解説で「美智子夫人の手記」として引用されているものである。読点を多用する文体は夫ゆずりだ。津島美智子「回想の太宰治」にも同様の記述があるが、ずっと簡略で、旅館名も書かれていないのは福田屋に遠慮したのであろう。貪婪移は、正しくは「貪婪禍」。

日本の佳宿